とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ポエムに万歳!

 「ポエム」の発見は小田嶋隆が嚆矢なのだろうか。個人的には住宅都市整理公団総裁の大山氏が言い出したのかと思っていたのだが、2013年6月の「新潮45」に小田嶋氏が書いた「『ポエム』化する日本」が話題となり、本書の刊行につながったもののようだ。そして本書のタイトルは「ポエムに万歳!」。だが、明らかに筆者は「『ポエム』化する日本」を嘆いている。しかし嘆いているにとどまらず、巻末の麻生哲朗氏との対談では、「意識的に使われるポエム」と「生まれてしまったポエム」を分けて批評している。「隠したいこと」「過剰に訴えたいこと」があるときポエムになるというのは鋭い指摘だ。
 そして「ポエム」はネット社会への移行がその下敷きとしてある。本書第2章「事件はスマホで起きている」はそのネット社会に対する批判だ。もちろん筆者はネットのヘビーユーザーだから、だからこそネット社会の矛盾や変調がよく見えている。と同時に、筆者独自の立ち位置として団塊世代の後の世代という点がある。私と同学年である。第4章の「高齢者の犯罪」で団塊の世代を痛烈に批判しているところが心地よい。
 日本は団塊の世代によって作られ、最適化され、そしてそれゆえに滅んでいく。その軋みつつある社会を冷静な目で見て文章にする。まさに小田嶋隆の真骨頂だろう。同学年のコラムニストに対して大いにエールを送りたい。

ポエムに万歳!

ポエムに万歳!

●書き手の何かが過剰である時、文体はポエムに近似する。・・・東日本大震災復興構想会議がまとめた「復興への提言」が古くさい昭和ポエムの文体で書かれていたのも偶然ではない。彼らもまた、主題を明確にすることができなかった。つまり、書き手が何かを隠蔽しようとする時、文章はポエムの体裁を身につけざるを得ないのである。(P18)
●速読にかまけていると、人の心はどうしても渇く。当然だ。本来、言葉は「声」として発されているはずのもので、文字は、その「声」を、記号化した表象に過ぎないからだ。とすれば、文字が音を消そうとするのは、本末転倒以外のナニモノでもない。/で、ここに「ポエム」の需要が発生する。(P32)
●事件は現場で起こっているのではない。それはスマホの中で起こっている。(P84)
●あゆ(浜崎あゆみ)に限らず、「天然モノ」の芸能資源は次第に枯渇し、市場には、「養殖モノ」のニュースばかりが荷揚げされるようになったわけで、結局のところ、メディアの現場は、事件や事実を「狩る」ことの非効率を嫌って、いつしかニュースを「養殖」する方向に進化したのである。(P140)
●テレビをはじめとするマスメディアは、最大の顧客である団塊の世代に対して、これまで、数十年にわたって、一貫して媚を売り続けてきたのである。/彼らが若者だった頃、ニュースは若者向けに発信され、ドラマは若者向けに演出され、・・・今、ベビーブーマーたちが一斉に高齢化してみると、今度は、ご老人のごきげんをうかがう電波を流しはじめている、と、そういうわけだ。/だから、団塊の不品行はいつも隠蔽される。・・・世代的圧力団体としての団塊。その集団的独善。(P177)