とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

だから日本はズレている

 若き社会学者、古市憲寿氏の新刊本が書店に並んでいたので思わず購入してしまった。「新潮45」を始め、いくつかの雑誌に寄稿した記事を加筆修正して掲載している。現在の「おじさん」たちの固定観念に囚われた考え方を揶揄する内容の論考が並ぶ。
 とは言っても、私も十分に「おじさん」というか、もう「おじさん」の域も超え出てしまっているかもしれないが、内容的にそれほどびっくりするようなことはない。「心のノート」や自民党憲法改正草案はまるでJ-POP歌詞の劣化コピーというのは面白いが。
 筆者を一躍有名にした「絶望の国の幸福な若者たち」にもあるとおり、現代は若者にとってけっしてめちゃくちゃ不幸なわけではない。という視点からすると、けっこう保守的・現状維持的な内容のものが多いが、それは「おじさん」が過剰に若者に期待しすぎているから。大丈夫、日本は着々と劣化してきている。そしてそれを立ち直らせることができるのは、「革命」ではなくて「静かな変革」。既に若者たちは「静かな変革」を始めている、と説く。
 最後に「2040年の日本」の未来予想図を描いてみせるが、本当にこんな社会になるのだろうか。こうした未来図はどれもどこか陳腐な感じがするが、筆者が描く未来予想図もその域を抜け切れていない。社会はもっと静かに、変化したことがわからないように変化していく、と考えた方がいいような気がする。

だから日本はズレている (新潮新書 566)

だから日本はズレている (新潮新書 566)

●日本には「強いリーダー」や「真のリーダー」がいないと言われる。それは別に嘆くことではなくて、むしろ喜ぶべきことだろう。強いリーダーがいなくても大丈夫なくらい、豊かで安定した社会を築き上げてきたことを誇ればいい。(P17)
ソーシャルメディアにおける「共感」というのは、冷めやすいのだ。一瞬、マスコミの不正に怒り狂ってニコニコ動画やブログを使って何かを書き散らしても、その気持ちは長く続かない。/さらに、人々に「何かした」感を気軽に与えてしまう。・・・つまり、ソーシャルメディアがガス抜き装置になって、1970年代のような大規模な不買運動の可能性が抑制されているのだ。(P108)
●よほど特殊能力がある場合をのぞいて、ノマドであろうとも結局は社会の歯車の一つなのだ。それは、会社の歯車の一つとして生きているよりもストイックさが要求される。(P165)
●日本で、わかりやすい「反権力」運動が成功したことはない。それを学んだ「静かな変革者」たちは、既存の社会システムと協調することを好む。行政に協力を仰ぎ、時には共に行動する。・・・彼らは、大きなことを言わない代わりに、粛々と身の回りの100人、1000人を確実に幸せにしている。だけど、その活動は規模が小さい分、あまり目立たない。/人はついつい「大阪から日本を変える」といった大きなことを言うカリスマ的人物に過大な期待をしてしまう。だけど少し考えればわかるが、社会は一瞬では劇的には変わらない。そしてカリスマの「耐用期間」は思いのほか短い。(P202)
●「おじさん」とは自分たちの価値観を疑わない人たちなのである。だけど同時に、自分たちを変えてくれる存在を待っている人たちでもあるのだ。「おじさん」たちは「若者」に倒されるのを、待っているのかもしれない。(P236)