とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

<世界史>の哲学 東洋篇

 図書館で予約する時、少し嫌な予感がした。全710ページ。図書館から本を受け取った時、その厚さに少し後悔した。全部で28章。「群像」に毎月連載してきたものをまとめたもの。各章は約25ページほど。だがこれがなかなか読み切れない。大澤氏の文章はけっして難しくないし、時に親しみやすい比喩もあるのだが、それでも内容は高度だ。それで読みながらどうしても眠ってしまう。
 予約期間の2週間で読み終えることはあきらめ、1日1章で28日と途中から目標を定めたが、それもなかなか守れない。結局、途中で3回延長し、2ヶ月かかってようやく読み終えた。もちろん理解できていない部分も多いが、全体的にはけっこう楽しめた。
 最初はジャレド・ダイヤモンドの著書を引いて、西洋と中国の比較から入る。非西洋とはどういうことか。新大陸の非西洋とユーラシア大陸の非西洋の違い。そして同じアジアの中でもインドと中国の違いについて考える。仏教とカースト。インドに生まれた仏教がカースト制の中でどんな役割を担ったか。
 中盤は仏教論とカースト論が繰り広げられる。大乗仏教とは、「空」とは、曼荼羅とは・・・。カーストの基底に贈与があることを考察する。贈与交換と負債としての人間存在。そして第三者の存在。「第三の審級」である。
 そこから一転、話題は中国社会のあり方に移っていく。三国志文民統制、法家と儒家華夷秩序三顧の礼、そして皇帝権力。皇帝権力は贈与交換の第三者の人物としてやってくる。最終盤は漢字の呪力についてだ。「正名」の機能、そして「天子」の指名。天子は贈与の果てに設定される。一方でキリストは、神の否定の先に立ち現われる。そして一神教世界の両端に中国の原理とキリスト教の原理が対置される。ふう、そう来るか。
 この長い書物の中では、贈与論、他者論など古今東西のさまざまな哲学者の論が引用される。それがまた面白い。<他者>とは<私>とは決定的に違い、「目的」としてあるもの。我々は<他者>からの贈与を得て初めて<われわれ>になれる。なるほど。
 ようやく読み終わった。読み始めればすぐに眠気に襲われ、何が得られたのかわからないが、それでも面白かったと思えるのは、いい本だからだろう。とりあえず読み終えることができてよかった。

<世界史>の哲学 東洋篇

<世界史>の哲学 東洋篇

●中国の権力は、空間的な広さを志向している。それに対して、西洋の権力、西洋というものを可能とした力は、高さへの志向に重点がある。とすれば、西洋と中国との出会いは、広さへの志向と高さへの志向の出会いであったことになろう。(P70)
●どうして、仏教の伝播の西側の限界線があるのだろうか? ・・・仏教が浸透しなかった地域は、・・・一神教が発生し、普及した地域と重なっている。一神教が、あるいは一神教を広く受け入れさせるような何らかの社会的・文化的条件が、仏教の深い浸透を阻む膜のようなものとして機能しているのではないか。・・・もうひとつ、仏教の普及に関しては、不思議なことがある。中心の空洞化である。・・・仏教に関しては、発祥地のインドではむしろ弱体化する。伝播の末端にあった、タイやミャンマー、中国等の方が、仏教の普及率は高い。こうした逆転はどうして生じたのだろうか。(P116)
●<われわれ>は、<他者>から、自分に欠如しているもの、それによって自分自身が完成すると感じられるものを与えられる。贈与は、だから、<他者>の<われわれ>に対する承認の表現である。<われわれ>の方は、<他者>から贈与されることによって、まさに<われわれ>になることができた、と感じるからである。愛する<他者>からの贈り物が、いかに深い喜びをもたらすかを、思い起こしてみればよい。(P402)
●意味を規定されている限りでの「他者」は、<私>にとっての「手段」であり、そうした規定に還元できない<他者>は、<私>を含む何ものの必要にも従属せず、それ自体で「目的」として自律している。・・・<他者>が<私>を最も肝心なときでさえも裏切る可能性を保持しているということ、そのような可能性を<私>が排除できないと感じていること、これらのことが、その<他者>が<私>の愛の対象であるための絶対に譲れない必要条件である。(P591)
●神であり人であるところのキリストの存在が含意していることは、まさに、普遍的な神の非存在なのである。一神教の論理の先端で、逆説的な仕方で、神の非存在が暗示されている。/すると、世界史の全体的な布置として、次のような構図を得ることができる。真ん中に(通常の)一神教を置いて、その両側で、中国の原理とキリスト教の原理が対峙する、という構図である。(P707)