とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ロング・グッドバイ

 村上春樹はいろんなところでレイモンド・チャンドラーを高く評価し、大きな影響を受けた作家の一人だという趣旨のことを書いている。本書の「訳者あとがき」にも以下のように記されている。

●チャンドラーは僕にとって最初から大事な意味を持つ作家であったし、その重みは今でも変わらない。小説というものを書き始めるのあたって、僕はチャンドラーの作品から多くのものごとを学んだ。(P606)

 そう言われれば、村上春樹の初期の三部作などは、こうしてチャンドラーの作品を読んでみれば、その影響下にあることが実によくわかる。あまりにいろいろなところで村上春樹レイモンド・チャンドラーに言及しているものだから、ようやく村上春樹訳の本書を読んでみることにした。文庫本にして594ページと実に長い作品だ。が、その後ろに付けられた50ページ近くに及ぶ長い「訳者あとがき」も大いに読み応えがある。「あとがき」の方を先に読んでおけば、またその味わい方も違ったものになっていたかもしれない。
 私は村上春樹ほど多くの小説を読んでいないし、文学研究者でもないので、チャンドラーの文体の独特さ、革新性がよくわからない。いや、当時は革新的で今ではチャンドラーの影響を受けた文体はどこでも見られるということだろうか。それでもそのハードボイルドな文体はかっこいいと思うし、巧いなとも思う。マーロウはどこまでもかっこいい。
 推理小説ではなくミステリ小説だと言う。私立探偵を主人公にした探偵小説という方がいいかもしれないが、確かにその楽しみはストーリー展開や謎解きではなく、私立探偵フィリップ・マーロウの人間性にある。そして彼の目を通して描かれる多くの登場人物たち。彼ら・彼女らの誰もかも実に愛らしく人間性を帯びて立体的だ。やくざの大物でさえ愛らしい。それこそがチャンドラーの文体の魅力なのだろう。
 先日発行された長編処女作「大いなる眠り」の村上春樹訳版もまた買ってしまった。いつか村上春樹とともにチャンドラーを楽しむことにしよう。その時はフィリップ・マーロウも付き合ってくれるんだろうか。またの再開を楽しみにしたい。

●言うまでもないことだが、彼女はどこまでも正しく、私はどこまでも間違っていた。でもなぜか、自分が間違っているという気がしなかった。ただ割り切れぬ気持ちが残っただけだ。もしその30分前に彼女が電話をかけてきていたら、私は腹立ちまぎれに、スタイニッツをこてんぱんに打ち負かしていたかもしれない。しかしながらスタイニッツは50年前に死んでいたし、そのチェス試合は本に残された記録の再現だった。(P27)
●まともな人間が祈るのであれば、それは信仰だ。病んだ人間が祈るのは、ただ怯えているからだ。祈りなんぞくだらん。これはお前が作った世界であり、お前一人が作っているものなのだ。もしほんのわずかな外部からの手助けがあったとしても―それだって、そう、お前が自分で作り出したものだ。祈るのはよせ。情けないやつだ。立ち上がってその酒を飲め。こうなってしまったら、ほかに何ができるというのだ。(P320)
●都会なんてどこも同じだ。都市は豊かで、活気に満ち、誇りを抱いている。その一方で都市は失われ、叩きのめされ、どこまでも空っぽだ。/人がそこでどのような位置を占め、どれほどの成果を手にしているかで、その相貌は一変する。私には手にするものもなく、またとくに何かを求めているのでもなかった。/酒を飲んでしまうと、ベッドに入った。(P428)
●法律家が法律を書いている。仲間の法律家が判事の前でものごとを細かくほじくりかえすことができるようにね。そして判事もまた法律家の一員だ。そのおかげで高裁の判事は地裁の判事が間違っていたと言い、最高裁は高裁の判事が間違っていたと言うこともできる。そう、たしかに世の中には法律というものがある。我々は首ねっこまで法律に浸かって暮らしている。しかし結局のところ、法律というのは法律家の仕事をこしらえるためにあるようなものだ。(P494)
●フランス人はこのような場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼにはまる。/さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。(P571)