とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

街場の共同体論

 月刊誌「潮」に掲載されたエッセイ等をまとめたもの。その多くは内田樹のブログにも転載されていたから、見覚えのあるものもある。「共同体論」で期待したのは、家族や社会の形と、それを反映した住まいや街の形。建築に関わっている者としては当然それを期待した。以前に内田樹が「コレクティブハウス」について聞かれ、「それは無理」と答えていたのを覚えている。そういった話がでるかと思ったが・・・。
 書かれているのは、拡大家族論、家族の解体、格差社会、学校教育、そして師弟論。内田氏自身、凱風館という合気道道場を開設し、共同体的な場の設置と運営を行っている。ある意味それは「まちの居場所」でもあると思うが、それを制度的・社会的に普及していくことは言わない。それが内田樹らしくと面白いところだが、「大人が少なくなった」と嘆き、学校教育の再生を訴える一方で、それは師弟という形で作られるべきだと言う。だから、組織的に強制するのではなく、そのことに気付いた人が一人ひとり実践すればいいと言う。
 それでは何も変わらないかもしれない。しかし強制したところで、結局かえって歪めるだけで正しい形に戻すことにはならない。一人ひとりが気付いて、小さな行いを重ねることで社会は元の形に戻っていく。戻らなければそれはそれで仕方ない。自分はしょせん弟子であり、先達にとても及ばない人間だということを自覚すること。そして少しでも気付いたことを実践すること。それが気持ちいい共同体を形作ることにつながり、生き延びていく唯一の方法だと述べる。
 確かにそうかもしれない。無理をしない。自らを正確に評価し、先輩や友人や家族や仲間に頼る。一方で、義務を果たす。でもそんな当たり前の行動がなかなかできないのが現在の日本の状況だ。内田氏の言葉に勇気を持って、また明日を生きていきたい。

街場の共同体論

街場の共同体論

●もう家族と学校だけでは教育機能が果たせない。だから、家族の場合ですと、いくつかの家族がゆるやかにつながった一種の「拡大家族」とか、「複合家族」のようなものが求められてきているんじゃないかと思います。・・・今日本の家庭における急務は、どうやって家庭を開放的なものにして、他の家族とつながるか、そのノウハウを身につけることだと思います。子供の教育のためにそのほうが効果的だということ以上に、生き延びるためには「連帯する能力」「共生する能力」を育むことが喫緊の課題になっている。(P84)
●弱者支援が「もっと金を」ということに一元化されてしまうと、それは同時に「金がすべての人間的問題を解決する。金以外には人間の苦しみや欠如感を埋める手立てはない」という命題に同意していることになる。そのことの危険性について、もっと警戒心を持ってほしいということを申し上げているのです。(P130)
●共同体成員の条件は何よりもまず、「共同体そのもののパフォーマンスを最大化するために何ができるか」を考えることであって、「この共同体の内部で自己利益を最大化するために何ができるか」を考えることではないからです。・・・学校教育は「共同体の次世代を担いうる成熟した市民の育成」のためのものです。・・・僕は自分自身が生き延びるために、この日本という国が生き延びるために、学校教育は制度設計されなければならないという、当たり前のことを言っているだけです。(P160)
●「バブル経済よ、もう一度」と遠い眼をしているのは、四十代以上だけです。若い人たちは、そういう先行世代をかなり覚めた眼で見ている。無意味に蕩尽することこそが経済活動だと思われていた時代がもう一度戻ってくるとも、戻ってきてほしいとも思っていない。もう成長しない社会に、どうやって適応すべきかを考えている。(P202)
●長期的に自己利益を確保しようと思ったら、周囲の人たちの利益に気を遣ったほうがいい。こんなの常識です。けれども、それが現代日本では非常識になっている。そして、急速に階層二極化が進行している。・・・階層化社会というのは、階層化されることでいちばん損をする人間が、最も熱心に作り出そうとするものなんです。そういう意味では悪魔的なシステムなんですよ。(P240)