とんま天狗は雲の上

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イエス・キリストは実在したのか?

 「イエスは実在したか?」という問いについては「おそらく実在した」と答えられるが、本書のタイトルは「イエス・キリストは実在したのか?」。その答えはノー。イエスはパウロによってキリストになった。イエス自身は当時多く見られた、ユダヤ教に基づく終末論を説く説教師であり、腐敗したユダヤ教司祭らを糾弾して世直しをめざす革命家であった。本書の原題である「Zealot」とは「熱心にあることにために力を尽くす人」すなわち「革命家」だ。
 ローマの統治を受け入れ、貴族的で贅沢三昧な生活を送っていたユダヤ教祭司たち。ローマから派遣された治世官の悪政により困窮する貧民。世の終わりと神の審判を触れ歩く預言者や説法師たち。民衆を扇動し反乱蜂起する反徒集団と容赦のない徹底的な鎮圧。一方で、都会で暮らすユダヤ人の中からはギリシャ語を話し、イスラエルを離れてグローバルに活動する者たちも現われている。そんな混乱し殺伐とした社会情勢の中で、ガリラヤ地方の片田舎ナザレから貧しい無学の青年が立ちあがった。
 聖書に書かれるイエスの姿を当時の社会情勢の中に置いて、残存する他の文献や史料からイエスの行動や思想を探っていく。イエスの死後、イエスの弟ヤコブを中心に厳格なユダヤ教を守っていこうとする共同体と、ギリシャ語を話す離散ユダヤ人を対象に独創的なキリスト解釈による布教活動を展開したパウロ。大祭司アナヌスによる義人ヤコブの処刑、そしてその後に起こったユダヤ戦争によりイスラエルは壊滅され、一ひとりまで徹底的に殲滅される。
 その後に執筆された福音書は、当然、離散ユダヤ人に向けられて書かれたものであり、パウロの独創的な創造の賜物であった。キリスト教がパウロの宗教と言われるのはそれゆえだ。パウロがいなければ、そして西暦73年のユダヤ戦争とイスラエルの滅亡がなければ、キリスト教は生まれていなかった。
 筆者は宗教学者にして作家。そのため、膨大な史料を渉猟して書かれた書物ながら学術書というよりも、まるで小説を読んでいるように鮮やかにイエスやパウロが躍動する。実に面白い。そしてわかりやすい。キリスト教を知ろうとするのではなく、その時代背景を見ることで、却ってキリスト教がよく見えてくる。イエスが人間であるとすれば、当然、彼はその時代を生きていたのだから。

イエス・キリストは実在したのか?

イエス・キリストは実在したのか?

キリスト教徒もまた、エルサレムを略奪される結果を招いた革命家の熱情と距離を置く必要を感じた。その方が初期教会にとって執念深いローマ人の復讐を免れられたばかりでなく、ユダヤ教が廃れた今、教会の伝道の主要な対象はローマ人になっていたからである。こうして、長い歳月の間に、イエスは革命志向のユダヤナショナリストから、現世にはなんの関心ももたない平和的な宗教指導者へと変貌していったのである。(P23)
ユダヤ人は、水の持つ微妙な力を崇敬し、水が、不浄なものを清浄に、俗世的なものを神聖なものにというように、人間もしくは物体をある状態から別の状態に変える力を持っていると信じていた。・・・しかも、エッセネ派には、自分たちの集団に新入会員を迎え入れる時には、洗礼のような、入会のために一度だけの浸礼の儀式を行う習慣があった。(P123)
福音書は、2000年前、「ナザレのイエス」として生きた人物についてではなく、福音書記者たちが神の右手に座っておられる人と見ているメシアについて書かれたものだからである。紀元一世紀にイエスについて書いたユダヤ人たちは、彼が何者であるか、すでに決断を下していた。彼らはキリストとしてのイエスの本質と働きについて神学的な論拠を構築中であって、一人の人間に歴史をたどる伝記を編み出そうとしていたわけではなかった。(P180)
●パウロの「キリスト」としてのイエスの描き方は、現代のキリスト教徒には聞き慣れたものかもしれないが―そしてそれゆえに教会の標準的教義にもなっているが、イエスのユダヤ人信奉者にとっては、どう見ても常道をはずれた、まったく奇想天外なものだったであろう。このナザレ人を、神聖で、先在的な、字義通りの神の子に変容させ、その死と復活が、世を裁く責任を持った永遠の存在になるという新しい概念をスタートさせているが、パウロの生きた時代をやや広範囲に広げて見ても、当時のイエスについて書かれたものを何一つ根拠にしていない(はっきり示されているのは、パウロの描く「キリスト」は彼自身の創作の可能性が高いということだ)。(P244)
エルサレム神殿が破壊され・・・イエスの信奉者を導く本山がなくなり、ユダヤ教と関連した運動が分断されてしまうと、キリスト教徒の次世代に救世主イエスを紹介する中心的役割はパウロが担うことになった。・・・全部で27篇から成る「新約聖書」の半分以上が、パウロによって書かれたか、もしくはパウロについて書かれたものである。それは驚くに当たらない。エルサレム崩壊後のキリスト教は、ほとんどまったく異邦人の宗教だったからだ。(P274)