とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

第一次世界大戦と日本

 「はじめに」に「大正と今との間には時代状況の類似点がある」と書かれている。大正デモクラシーと言われた時代。だがその後、急速に「戦争とファシズム」の時代に変化していく。それは「第一次世界大戦とその後の時期に『戦争とファシズム』の種子が蒔かれたからである。」と書かれている。それを知ることは、現在の右傾化の状況を食い止めるために意味があるのか。または今後、時代はどう変化していくのか。それらを考えるための材料になるという思いで、期待して本書を読み始めた。
 具体的にこの部分が転換点だった、この決断が間違っていたと指摘があるわけではない。本文では、「外交」「軍事」「政治」「経済」「社会」「文化」のそれぞれの面から、第一次大戦後の時代を追いかけていく。一概にそっくり瓜二つなわけではない。世界大戦に参加すべきか否かで議論が分かれる。日英同盟に引き摺られるようにして、欧州派兵まで踏み込んでいく日本。しかし戦争終結後のパリ講和会議に参加し、国際連盟設立に参加していく中で、次第に日本外交が変化していく。いわゆる新外交への転換だ。国際連盟で日本は4人の「国際会議屋」が活躍し、国際協調路線の中で一定の地歩を築いていく。
 また世界も世界大戦後の世界情勢の中で、デモクラシー化が進んでいく。しかしこの民主化が両刃の剣だった。国際協調外交により平和外交を進める一方、内国的な外交の民主化、外交への大衆の影響力が強まっていく。満州事変を支持する大衆の勢いに新外交は抵抗できなかった。そして一気に日本は国際連盟脱退へ突き進んでいく。
 果たしてこれのどこに現在の日本との共通点を見ればいいのだろうか。ポピュラリズムの横行だろうか。人それぞれ観点は違うだろうが、確かにこうして大正時代を振り返るのは面白い。ぼくらは第二の満州事変を止めることができるのだろうか。かなり危ういような気がする。その時ぼくらはどうすればいいのだろうか。

●石井(菊次郎)は予測する。欧州大戦をきっかけとして生まれた新外交はつぎのような発達段階を経る。「外交は漸次に鉄砲玉を離れて算盤玉に近付く、儀式辞令より解放せられて民衆化する」。石井にとって新外交とは外交の民主化のことだった。他方で新外交は価値観外交を意味した。「正義公平の観念の進歩と共に国際連盟の平和風が世界を風靡し、連盟の決議は国家間個々の問題に対しても大なる威力を有するに至り、外交問題は列国会議に由って一般的に協定せらるるの傾向となる」。石井は外交の民主化による国際協調が世界に広がる未来像を描いた。(P50)
●欧州大戦によって対等な主権国家関係の拡大=国際政治の民主化が進む。国際政治の民主化は国内政治の民主化に波及する。アメリカ型とソ連型の国家モデルの間にあって、戦後日本は、男子普選による二大政党制を確立し、格差是正の社会政策を具体化することで、民主化を志向する。帝国主義と専制政治の時代から国際協調と民主主義の時代へ、日本の外交と国内政治は大きな変貌を遂げていく。(P94)
●ここに金融恐慌は高橋(是清)の「疾風迅雷的」措置によって沈静した。役目を果たした高橋は六月二日に蔵相を辞任する。/世界大戦後、日本経済は何度か危機に見舞われた。そのたびに高橋が救世主となって立ち現れた。世界経済にどれだけ困難があったとしても、日本は経済的国際協調によって生き抜く以外になかった。高橋はそのような日本を象徴する存在だった。(P170)
●平和博は世界大戦後の反動不況が続くなかで開催された。不景気風は吹いていた。平和博は不入りだった。・・・さまざまなテコ入れにもかかわらず、会期を残り1ヶ月になった時点で、関係者は「大損」であることを認めた。・・・八十九万六八五五円の赤字だった。七月三〇日の閉会式はさびしかった。大臣ひとり参列していなかった。閉会式は「静かに手軽に」おこなわれた。/平和記念東京博覧会の光と影は世界大戦後の日本の光と影の象徴だった。(P251)
第一次世界大戦をきっかけとするデモクラシーの世界化は、日本外交に両面の価値をもたらした。この戦争後の日本は、一方で新外交を受け入れながら、他方で外交の民主化(外交に対する大衆の影響力の拡大)が進んだ。・・・満州事変が勃発する。外交の民主化は裏目に出る。国民世論が急角度で満州事変支持に転換したからである。・・・外交のプロフェッショナリズムは外交のアマチュアリズムの批判を受けて、後退を余儀なくされる。・・・高度な専門知識と複雑な多国間外交交渉能力を必要とする国際協調外交は、十分な国内の支持基盤を持たなかったことから瓦解していく。外交をめぐるプロフェッショナリズムとアマチュアリズムの問題は、今も100年前から続いている。(P252)