とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

黙示録

 「黙示録」、言わんと知れた新約聖書の最後の書、「ヨハネの黙示録」のことである。本書は、この黙示録に何が書かれているかを示しつつ、そのテクストとイメージが現代社会において今なお、いかに大きな影響力を持っているかを示していく。
 第1章は、「七」という数字が繰り返し用いられること。そして、「4」「12」「666」など黙示録に現れるさまざまな数字をキーに黙示録の内容を語っていく。栄光と破滅のめまぐるしいまでの転換。その強烈なイメージはそれ故に多くの人を捉えて離さない。
 第2章「終末の源泉」。終末論のモチーフは黙示録以外の書や外典にも何度も取り上げられてきた。「ダニエル書」、「イザヤ書」、外典「第四エズラ書」、外典「第一エノク書」などを取り上げ、それらを具体的に見ていく。そして第3章「変奏される神話」では、こうした終末思想が歴史の中で何度も取り上げられ、今に至っていることを示す。
 第4章以降は、黙示録的イメージの普遍化の確認だ。第4章では黙示録で現れる二人の女性、「大淫婦」と「太陽を身にまとう女」がいかに後代に様々に表現されてきたかを追う。さらに第5章では「アンチキリスト」、第6章では「カタストロフ」。
 こうして読み終えると、改めて黙示録が現代社会に大きな影響を与えてきたか、与え続けているかを思い知らされる。そして西洋社会の根源にあるものを見せられた気がする。恐怖と希望。ここから我々は抜け出さなくていけないのではないのか。逆に、こうした終末論的思考に我々日本人もいつのまにか捉えられていることに気付く。黙示録、恐るべし。

●「いまここ」と「いつの日か」、「すでに〜ある」と「いまだに〜ない」、そのあいだを生きるのはキリスト教徒の使命である。ただしこの不在と期待の宙吊り状態は、キリスト教徒にかぎらず、人間の生のあり方そのものに深くかかわっているともいえる。キリスト教が普遍宗教たりえた原因の一端は、このあたりにもあるのかもしれない。(P44)
●黙示録的終末論において、危機の意識と、裁きの要請と、報いと救済への希望という三つの契機は、切り離して考えることはできない。つねにいわば三位一体である。そして、その時期がいかに差し迫っているかは、当面する現実の出来事や状況によって判断され、計算されるのだ。(P74)
●わたしたちは終末と危機に飢えている。というのもそれは、希望と新たな開始(リセット)へのきっかけともなるからだ。黙示録的なレトリックは、しばしばそんなわたしたちの願望に巧みにつけこんでくる。そうして、空想や妄想にすぎないものが、あたかも切迫した現実であるかのように思い込ませることに成功する。外部の脅威をことさら煽ることで内部の結束を固めようとする。・・・もちろん黙示録の発想は、来るべきよりよき時代への期待でもあるわけだが、問題は、誰にとってよりよい時代か、ということだ。(P78)
●恐怖と希望は、あらゆる感情のなかでもっとも強烈なものである。それらは、理性や意志を超えたものであり、しかもすべての人間に共通している。したがって、コントロール不可能で、破壊的ですらある感情としての恐怖と希望は、あらゆる感情のなかで鍵となるもので、倫理的、宗教的、政治的、美的=感性的にもひじょうに重要な意味をもつ・・・・『黙示録』は、まさしくこの二つの感情、希望と恐怖を巧みなレトリックでその語りのなかに組み込んでいる。(P96)
●「苦しむ肉体の写真を見たいという欲求は、裸体の写真を見たいという欲求とほとんど同程度に強い。何世紀ものあいだ、キリスト教美術においては、描かれた地獄がその二つの基本的な欲求を満たしてきた」。いみじくもソンタグの指摘するように、キリスト教美術、とりわけ黙示録の図像は、現在に流布し蔓延している終末論的イメージの大きな源泉になってきた。・・・そこにはまた裸体と拷問のシーンが氾濫している。(P216)