とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

没落する文明

 先に読んだ「文明探偵の冒険」が面白かったので、少し古いが本書を探して読んでみた。萱野稔人との対談集ということでどうかな?とは思ったが、案の定、萱野稔人が話をリードし、神里達博が応対する形。「文明探偵の冒険」で見られたような神里氏の奔放な発想と展開はあまり見られず、やや残念だ。新エネルギーの発見について、萱野が必要論から否定するのに対して、「これに関しては、確信が持てません」と神里が否定するのが唯一の場面か。他は基本的に萱野の論調に合わせているという感じがする。

 「没落する文明」というタイトルだが、どうしてそのタイトルが付けられたのか、よくわからない。第1章では破滅的な天災の頻発が「反権力」な日本人の特性を作ったという話が面白い。第2章「テクノロジー、権力、リスク」では、農耕と土木事業から権力が発生したと権力論が語られる。そしてそれが昂じて、近代社会ではリスクを全て国家が引き受けることになり、その結果、追い切れないリスクとともに国家が倒れてしまうというイメージを語る。

 その後、テクノロジー、エネルギー、経済と話は移り、バブルの崩壊や人口減少などから社会の縮小が起こったとき、そのリスクをどう監理していくのか、成長幻想から脱するべきだと言って結論に至る。成長に対してニュートラルな社会設計が必要ということはわかるが、その具体策は語られない。「縮小対応力」という言葉も出るけど、中途半端な言いっ放し感が強い。萱野稔人に引きずられ過ぎだな。やはり今度は神里達博単独の本が読みたい。

 

 

没落する文明 (集英社新書)

没落する文明 (集英社新書)

 

 

○住民が国家の支配を受け入れるためには、その支配の基礎にある物理的実力を「自分たちを守ってくれるもの」と思えることが必要です。/神里:その図式を日本の話とつなげるとすると、要するに日本では天災があまりに頻繁で破壊力も大きいために、住民が国家に対して「自分たちを守ってくれるもの」と思えなくなったということになりますよね。/萱野:だから日本社会というのはきわめて「反権力的」なんですよ。権力をあまりアテにしていないし、権力者が突出して意志的にものごとを決定することを忌避する傾向も強い。つまり、みんなでなんとなく決定することをよしとするのが日本人の「反権力」ということです。(P44)

○農耕の開始とともに治水や灌漑が必要になりますから、・・・土木工事の実施をつうじて権力が生まれ、国家の原型ができあがってくる。・・・さらには、灌漑と農耕をつうじて生産された生産物をコントロールする必要も出てくる。土地、労働、生産物、この三つが権力の生態にとっての基本要素です。これら三つの要素をもっぱらコントロールする集団が、他の人間たちから分化され、固定化されることで、支配階級が生まれてくる。(P90)

○近代国家が成立してくるプロセスでは、権利が抽象化され、国家のもとへと吸収されていくと同時に、リスクに関する当事者性を希薄にしていくんですね。/神里:そういうプロセスの先には、あらゆるリスクが事実上、国家に集まってしまうという、まさに「メタレベルのリスク問題」がありそうです。・・・/萱野:近代ではあらゆるリスクが国家に集まってきてしまう、というのは重要な指摘ですね。・・・そのうち抱えきれないほどのリスクを国家が背負ったまま倒れてしまうということにもなりかねません。(P98)

○神里:ひとつ留保しておきたいのは、新エネルギーが本当に見つからないのかどうかです。これに関しては、私は確信が持てません。というのも、現在の物理学はどうも「踊り場」が続いていて、新しくておもしろい発見があまりないように思われるからです。・・・それは逆にいうと、踊り場のあとにはパラダイムの変換が起きると考えられるかもしれない。・・・ただ、人間の側にはその動機が薄いとも感じるんです。つまり、もう低成長時代にみずから適応しようとし始めている、そんな感じがする。(P158)

○成長幻想から脱しないといけないのは、・・・成長を前提とした社会制度だと、これからの縮小社会には対応できないし、害も大きいからです。経済成長するかしないかにかかわらず、今後の社会制度の設計は成長に対してニュートラルでなければいけません。(P181)