とんま天狗は雲の上

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商店街はいま必要なのか

 「商店街はいま必要なのか」。このタイトルに対して、プロローグで、そして「あとがき」でもコメントが書かれている。元々は「『日本型流通』の近現代史」という仮タイトルで、そしてギリギリまで「商店街はウォルマート化するのか」というタイトル案だったという。副題としても使用されている「『日本型流通』の近現代史」が本書の内容を的確に表している。「商店街」という存在を比較対象に置きつつ、百貨店、通信販売、商店街、スーパー、そしてコンビニエンス・ストアについて、それぞれの歴史を描いていく。改めて確認すれば、筆者は戦前の流通史を専門とする歴史学者であった。かつ、両親が脱サラしたコンビニ経営者だったという経歴があとがきで披露される。

 過去の歴史の部分では、百貨店の当初が呉服商の流れを汲み、客の要望を聞いて商品を取り出す座売りだったことは知っていたが、通信販売に乗り出した際も、同様の筆者が定義するところの「代理選択」が多かったという点には驚いた。

 コンビニが、商店街の中の小売店を生かし近代化していくという流れの中で誕生し、現在の隆盛につながっていることは理解する。一方で、商店街が地域コミュニティに果たす役割に光が当たり始めたところで、日米構造改革等により大店法が改正され、大型店の郊外立地が進んでしまったことを残念に思う。しかし筆者も書いているが、観戦道路網の整備等により、これは必然の動きだったのかもしれない。

 末尾で、消費と労働と地域を結び合わせる必要性について書く。商店街が果たしてきた役割がそこにはあると言いたいのだろうが、しかし、消費がここまで追及され、分解されてしまった後で、もう一度、従来の商店街を復活することは困難だ。もとより歴史学者にその解決や回答を求めてもしょうがない。政治家や社会学者、都市計画家などが考えるべき課題だとは思うが、消費・労働・地域、それぞれが分解しつつある今、果たしてこれらを結び合わせるモノや仕組みがあるのだろうか。ことは商店街だけの問題ではない。

 

 

 

○1927年の金融恐慌と、1930~31年の昭和恐慌は、それ自体として小売店の経営を圧迫していきましたが、不況にもかかわらず、というよりも、むしろ不況ゆえにこそ小売業への新規参入が活発になるという、今では考えにくい現象が苦境の度合いを強めていきました。/というのも・・・小売業はそれほど多額の資金を要さず・・・開業が容易だとみなされていたのです。・・・こうした位置づけを踏まえて・・・当時の商業部門は「過剰人口のプール」だったと言われることもあります。・・・こうした状況に不満を募らせる彼ら・彼女らのエネルギーが、反百貨店運動という形で噴出していった面が多分にありました。(P68)

○顧客は自分の年齢・背丈・体格・着用場面などを書き添えた注文状を送り、それを受け取った店側が、その注文状からその顧客にふさわしいものを仕立てて送る、というスタイルがとられていました。・・・以上の・・・ような取引のあり方・・・を、店側が顧客に代わって商品を選択するという意味で、私は「代理選択」と呼ぶことにしています。・・・戦前の百貨店通販においては、カタログ販売よりも、こうした代理選択による取引が主流でした。(P98)

○84年に『80年代の流通産業ビジョン』として刊行された構想は、「社会的有効性」という新しい評価軸から、地域商業の役割に新たな光をあてていました。・・・ここには・・・「消費者としての私」と「地域住民としての私」を結び合わせる小売の形が、たしかに視野に収められていました。/ところが、現実には、そうした方向からの大型店規制に関わる議論が熟さないうちに、大店法は1980年代半ばから、規制緩和の方向へと大きく舵を切っていきました。・・・皮肉なことに、地元商業者の政治力が出店調整に影響する大店法の枠組みは、商業者が相対的に少なく、政治的な力を十分に持たなかった郊外地域へと、大型店を誘う一因となりました。(P233)

○そもそも日本では、中小小売店の近代化という文脈でコンビニが捉えられていました。たとえば、セブン-イレブン・ジャパンの創業にあたっては、スーパーの進出に反発を強める中小小売店との関係が念頭に置かれており、商店街の小売店を近代化・活性化し、大型店と共存共栄できる道はないのか、という課題に応えるべく、既存店を仲間にしていくフランチャイズ・システムが採用されたと言われています。/そして、この選択は、本部企業にさまざまな利益をもたらしました。・・・こうして、日本のコンビニは、本部企業の側からみると、立地だけでなく、資金の面でも、中小小売店の蓄積をうまく活用していったとみることができます。(P260)

○日本型流通の申し子たるコンビニは、消費者のために、いわば消費の論理を突き詰めることで急速な成長を遂げてきました。しかし、結果として、そのことが労働へのしわ寄せとなって表れ、消費の論理と労働の論理が大きくバランスを崩しているように見受けられます。/消費者のために、安く、便利に……。しかし、そもそも人は消費者としてのみ生きているわけではなく、「消費者の利益」を追求することは、それ自体として、ただちに万人の幸福を約束するわけではない。・・・消費と労働と地域を結び合わせる「生活」が、いま、問われています。(P289)