とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

生身の暴力論

 小さい頃から泣き虫で通ってきた私は暴力が大嫌いだ。臆病で気が小さいので、なるべくそういう場面は避けて生きてきた。おかげで小学生の頃、一度、取っ組み合いの喧嘩をした覚えがあるが、その後は顔を殴られた経験はない。

 一方で、気に入らない相手に対して、心の中で暴力を振るうことを想像したことは何度もある。夫婦喧嘩をして物を下に投げ捨てたこともある(妻に向かって投げることはしなかった)。それでもそれが何も解決をすることはない。

 本書はもっぱら暴力を振るわれる立場からの暴力論である。いや、暴力を振るうのなら早めに「デビュー」することを勧める。そうすればやたらと暴力を振るうことはなくなると言う。それはヤクザや不良少年の話だ。私の年になって今さら暴力を振るったところで負けるがオチだ。だから暴力をチラつかせる相手に対してどう対処すればいいか。そのヒントがないかと本書を手に取ってみた。

 答えは、被害実態をしっかりと記録し、被害届を出すこと。それが筆者のアドバイスだ。筆者は「ダークサイドJAPAN」や「実話ナックルズ」の編集に関わり、暴力団や暴走族などに取材する機会が多くあった。その経験を元に、暴力とは何か、どう対処すべきか、言葉の暴力やネット世界なども含めた最近の暴力事情を紹介し、本当の強さとは何かを説く。

 「覚悟を決めた人間」「優しい人間」が本当の意味で強い人間だと最終章で言う。私はよく「優しい人」と言われる。でもそれは単に「気弱な人間」という意味に過ぎない。本当の意味で「優しい人間」になりたいと思うが、そこまでの覚悟はできているか。「潔く頭を下げてもなお、迫力がある人間」(P192)。そんな人間にはなかなかなれない。もちろんなれたらいいとは思うのだが。

 

生身の暴力論 (講談社現代新書)

生身の暴力論 (講談社現代新書)

 

 

○不良少年にとって、本当の喧嘩相手は実は目の前に対峙している者ではない。仲間であり生活圏内に暮らす地元の友人・先輩・後輩なのだ。喧嘩をしたその後、地元の仲間や先輩、後輩からどういう評価を受けるのかが、本当の勝負と言える。すなわち、「ダサい」という評価を下されるのか否か、だ。(P48)

○「被害届を出しに行った」という事実は何を意味するのか。つまり、後々裁判などになった場合、「僕が恐怖を覚えた」と証言台で言う事ができるようにするためである。届を出しにも行っていないのなら、相手側の弁護士から「被害届を出していないって事は大した事だと思っていなかったんでしょ」と突っ込まれる可能性がある。・・・受理されなくとも被害届を出しに行ったという記録は残っている。そして、受理でなくても刑事としては、受理するかどうかも含めて調査している訳だ。(P139)

○多弁になるのは自己防衛からだが、プライドが高い人間に多い。人間だから過ちは必ず犯す。そういう時に己のプライドを捨てられるか。そして、どういう行動を取るかで、その人間の「強さ」が垣間見える。(P189)

○覚悟がある人間の言葉は、たとえ辛辣でも、どこかしら優しさがある。「優しくなければ生きていく資格がない」というフィリップ・マ-ロウのセリフの意味は、覚悟があるかないかを問うているのではないかとも思う。/優しい人間には想像力がある。それは強さに直結する。だから、想像力が働かず、外見だけで判断する人間は、危険に陥りやすい。(P195)