とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

論壇日記2011.4~2013.4

 2段組の全368ページとぶ厚い。朝日新聞の論壇委員という、論壇時評を執筆する高橋源一郎氏を影で支える役割を担う数人の委員の一人として、毎月開催される会議に向けて作成したメモが2年分。それに、朝日新聞に論壇委員として執筆したコラム「あすを探る」と週刊エコノミスト連載の「読書日記」を掲載する。

 コラムを除けば、いずれも論壇誌に掲載された評論や論文を批評するもので、他者の論文に関する内容が主である。筆者自身の考えはところどころで披露されるもののそれがメインではない。毎月、論壇誌の内容に応じて、概ね3~4テーマを取り上げ、記事内容を比較したり、深めたりする。2011.4からなので最初のうちは震災や原発事故関係、さらに復興などがテーマになり、政治的テーマがそれに重なる。いずれも既に2~4年前の出来事で、現在にもつながるテーマとはいうものの、当事の状況に即して読む必要がある。しかも長い。

 ということで、早々に流し読み状態となり、あっという間に読み終えてしまった。じっくり読めば面白いメモもあるのだが、この厚さを延々と読み続けるのはかなりしんどい。高橋氏が執筆した「論壇時評」自体は、「ぼくらの民主主義なんだぜ」として発行されているので、本書と裏表で読めば面白いのかもしれないが、「ぼくらの民主主義なんだぜ」もまだ読んでいない。そんな状況で本書を精読する気力は早々に失せてしまった。小熊さん、ごめんなさい。

 でも結局、小熊氏はこれで何を伝えたかったのだろうか。先に出版された「生きて帰ってきた男」も自分の父親の半生が延々と描かれるだけの内容と言えなくもないが、そこには時代背景が見えてきて、かなり面白かった。しかし本書の場合はわずか数年前の出来事で、時代背景を楽しむような状況にはない。結局、小熊氏は記録魔なんだろうか。せっかく書いたメモは出版せずにはいられないということか。

 それでも流し読みしつつも目に留まったところをいくつか引用しておく。しっかりと読めばまた面白さが出てくるのかもしれないが、今回はこの辺で・・・。

 

論壇日記 2011.4-2013.3

論壇日記 2011.4-2013.3

 

 

○「弱者」といっても、所得や学歴が低いとは限らない。都市の「消費者」は、所得や学歴はむしろ高いが、地方の「生産者」にくらべて政治回路から疎外され、税金を吸い上げられているという「被害者」の意識は強い。傍観者でいる限りは、彼らは無傷であり続ける。しかしその代償として、疎外感を背負わざるを得ない。(P82)

原子力発電のコストは、実は大部分が安全コストである。・・・そのコストは「安全にどこまで配慮するか」にかかっている。耐震性や防護はぎりぎりでいい、多少の放射能漏れは気にしない、というのならコストは安くなる。・・・しかも安全コストは、専門家の独断では決まらない。人々が安全やリスクに敏感になり、人権意識が浸透すれば高くなる。・・・つまり原発のコストは、純粋に経済学的なものではなく、社会状態の関数なのだ。(P123)

○「真実」とは、社会的に構築され、共有されることで「真実」になるものである。・・・かつては、情報へのアクセスが制限されており、そこにアクセスできる専門家なり県稲荷が「これが真実だ」といえば、みんなが納得した。そんな時代は、とうに終わっている。現代社会の実情と、現代における有効性を勘案して、公開性を原則に広く正統性を構築していくしかないだろう。(P200)

有識者レベルでは、基盤となる共通認識ができつつあるように思う。ポスト工業化・グローバル化を前提にして、規制緩和・雇用柔軟化・社会的包摂を並行して行う、という方向性である。一定水準の社会保障を行なった方が、雇用の柔軟化や産業構造の転換もやりやすい、というのが新自由主義社会民主主義の折衷点であり、これが広がりつつあるように思う。(P258)

○神野氏の考えでは、財政は社会を支えるためにある。財政のために支出を削り、社会を委縮させるのは本末転倒だ。外債依存度が高い国は別だが、国家は増税が可能である。/それなのに日本で増税ができないのは、「税」とは「国民がお金を出し合い社会を維持すること」だという合意がないからだ。合意があれば、負担が重くとも負担感は少ない。・・・つまり日本では、「財政民主主義」が成立していない。これが財政危機の根本原因で、歳出削減増税をただ論じても効果は薄いというのだ。(P329)