とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

フラニーとズーイ

 昨年春に村上春樹訳で刊行された本書について、関心はあったがこれまで手に取ることがなかった。先日、書店でたまたま手に取り、そして今回初めて読むことになった。フラニーとズーイが人の名前だろうということ位は想像できたが、2人が兄妹だということまでは知らなかった。「ズーイ」の章の冒頭で筆者をかたるズーイの兄、バディが「これは集合的な、ないしは複合的な、そして純粋にして入り組んだラブ・ストーリーである。」(P74)と語る。確かにこれはラブ・ストーリーかもしれない。兄妹、そして家族愛の物語と言える。

 一方で、神への祈りやイエスの行動等に関する宗教議論が繰り広げられる。フラニーが悩み錯乱していることがまさにこの神の問題である。そこに仏教や禅などの要素も入り込むところが面白いが、村上春樹の解説によれば、そういう時代だったということだ。なるほど。しかしこの小説の主題は宗教論議ではなく、あくまで家族愛の物語である。

 振り返ってみると本書は、「フラニー」の章でフラニーと恋人のレーンとの会話、「ズーイ」の章でズーイと母親ベッシーとの会話、そしてズーイとフラニーとの会話、基本的にその3つのシーンだけで構成されている。「ズーイ」の章の冒頭にバディの手紙が挟まれるが、それはグラス家の家族のあり方を示す描写の一つに過ぎない。

 末妹という家族みんなに愛される存在。彼女を巡って示される家族愛の物語。しかしそれは巷にあふれるラブ・ストーリーではまったくない。世界の名作として取り上げられるに足る小説の一つである。今回読んでみて本当に面白かった。最後はフラニーとともに心が癒され、温かくなった。

 

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

○今のところ私がここでお目にかけようとしているのは、我ながらいささかひるんでしまうくらい冗長で生真面目であるばかりか、その上に痛々しいまでに個人的な類の話だ。それなりに幸運に恵まれ、ものごとが首尾良く運べば、それはおそらくむりやり連れて行かれる機関室のガイド付きツアーに肩を並べられる程度のものになるだろう。そして不肖この私が、古風なジャンセンのワンピース水着に身を包んで先に立ち、案内役を務めさせていただく。(P72)

○『グレート・ギャッツビー』の中で、語り手の青年がこう語っている。人は誰しも自分は「七つの徳」の少なくとも一つくらい持ち合わせていると考えるものだ、と。・・・私のそれは、思うに、神秘的な物語とラブ・ストーリーの違いがわかることだ。私がここで提供しようとしているのは実を言えば、神秘的な物語でもなければ、宗教的に神秘化された物語でもない。言わせていただければ、これは集合的な、ないしは複合的な、そして純粋にして入り組んだラブ・ストーリーである。(P74)

○君は財宝の蓄積について話す。金やら資産やら文化やら知識やら、なにやかやについて。・・・でもイエスの祈りを追求していくことによって、君だって何かしらの財宝を積み上げようとしているとは思わないのか? そいつはすべての面において、他の物質的なものごとに負けず劣らず、兌換性のあるものなんじゃないのか?(P212)

○「世の中には素敵なことがちゃんとあるんだ。紛れもなく素敵なことがね。なのに僕らはみんな愚かにも、どんどん脇道に逸れていく。そしていつもいつも、まわりで起こるすべてのものごとを僕らのくだらないちっぽけなエゴに引き寄せちまうんだ」。(P219)

○何がエゴであって何がエゴでないか、それを決めるなんて、まったくの話、キリストその人でもなきゃできないことなんだよ。なあ、ここは神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだよ。そして何がエゴで何がエゴでないかを最終的に決めるのは、神様なんだよ。(P240)