とんま天狗は雲の上

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騙される行政、騙されない行政

 シェアハウスに住むシングルマザーが同じ家に住む男性と事実婚の関係にあるとみなされ、児童扶養手当を打ち切られた問題で、厚労省大臣が新年早々の記者会見で国立市の対応に疑義を述べたという報道があった。これを新聞で読んだ時には、「国立市も酷いことをするなあ」と思ったのだけれど、しばらくして「それもしょうがないか」という気がしてきた。
 もちろんその母子家庭は児童扶養手当の給付を受ける資格がないと言いたいのではなく、大臣が言うとおり、支給されてしかるべきだと思うけれど、たぶん国立市の職員はマニュアル(厚労省の通達?)とおりに運用したんだろう。でも、運用については担当者の判断に委ねる形であったらばどうだろうか。
 本来はそうあるべきだと思うが、そうであれば逆に恣意的な運用という批判があるかもしれない。シェアハウスという居住形態がほとんどなかった頃に作られた基準が時代に合っていなかったということだと思うが、会計検査院の調査があることを思うと、後々、補助金の返還になりかねないような支出は市としては極力避けたいと思うのではないだろうか。
 仕事柄、建築基準法の運用判断に戸惑うことがよくあるが、基準をどれだけ精緻に作ろうが、時代は変化するし、世の中には基準が想定していないようなこともしばしばある。また、基準の逆手を取って適法ギリギリを狙う輩も少なくない。いわゆる脱法ハーブ(今は危険ハーブ?)などもそんな類の話だろう。そうした場面では我々は行政に的確かつ厳格な運用を望むのだが、一方で先に挙げた母子家庭の例では柔軟な運用を望んだりする。
 母子家庭の例でも、ひょっとして実は事実婚だったということだって考えられないこともない。いや、今は違ってもいつかそういう関係に発展しないとも言えない。何と言っても同じ屋根の下で暮らしているんだし、人間関係には何があってもおかしくない。そう考えると、厳格な運用をした国立市の担当者を一概に批判することが正しいとばかりも言えないような気がしてくる。
 我々は絶対騙されない行政を望んでいるのだろうか。それとも時に騙されてもいいから、血と涙のある行政を望んでいるのだろうか。私個人的には後者でいいのではないかと思うが、クレームの多い昨今では前者のように考える公務員や国民も多いのではないだろうか。難しい時代になったものだ。いや、イヤな時代になったということか。やれやれ。