とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

内田樹の大市民講座

 久しぶりに内田樹を読んだ。いつもの内田節。本書は「AERA」に連載されていたコラム「大市民講座」と「eyes」を採録したもの。字数が900字に制限され、短いコラムが続く。だいたい1テーマ1ページ半くらい。短くとも内容は起承転結、流れがあって読みやすい。これについては内田自身が「あとがき」で大瀧詠一に学んだと述べている。
 大きく6講に分けて、大市民のための「生き方・仕事論」「メディア論」「国際関係論」「教育論」「政治・経済論」「時代論」に区分けされているが、たまたま編集の方がそういう分けにしたということであって、それほど意味はない。同じテーマのコラムが並ぶと、やや飽きるということもあるが、2008年から7年間なのに、社会的背景が大きく変わっていることに驚く。
 7年前には東日本大震災も起きていなかったし、もちろん原発事故前で、7年の間に自民党から民主党への政権交代があり、また安倍内閣に戻った。たった7年間の出来事とはとても思えない。内田のコラムも7年前はまだのんびりしていたが、最近のものは時代への危機感や緊張感が垣間見えるような気がする。内田自身は神戸女学院大学を退官し、ある意味、悠々自適の生活になったにも関わらず。
 「大市民」という言葉の謂れについては「まえがき」に掲載されたコラムに書かれている。「小市民」がある日、社会に対する市民的責任に気づくという植木等の主演したドラマに由来しているという。我々も時に「大市民」の気概を持って社会を眺め、生きていくことが必要ではないか。メディアが言われるままに今の世の中を受け入れていては、社会の中に閉塞してしまいそうだ。本書を読んであなたも大市民への視点を持とう。そう言われているようだ。
 それにしても、この7年間の変化を思うと、さらに7年後にはどんな日本になっているのかと思う。自分がまだ気分よく生きていられるといいのだけれど。

内田樹の大市民講座

内田樹の大市民講座

●この事件の全体を領しているのは「現実に対する記号の圧倒的な優位性」である。/彼は「格差社会の最下層」に自分を「格付け」し、おのれの不幸は「他の人々が不当に受益している」せいであるという「物語」を採用した。この「物語」を認めるならば、「社会への復讐」を自制する論理的な根拠はなくなる。/忘れてはいけないが、この「物語」はひさしくメディアと一部知識人が「政治的に正しい格差論」として宣布してきたものなのである。(P19)
●軍隊はその「平和維持」機能を効果的に達成すれば自身の存在理由を失う。それゆえ、軍隊はその本性として「コントロールできる程度の軍事的危機が絶えず存在すること」を望むようになる。・・・だから、東アジアに軍事的緊張があることから利益を得ているという点で、米国の産軍複合体と中国人民解放軍朝鮮人民軍は同類である。この三者はある種の共存関係にある。彼らはいずれも東アジアに恒久的な同盟関係が構築されたときにその存在理由の過半を失う。(P78)
●社会制度の不調はもっぱら寄生的な外国人が国民が享受すべき権利と富を収奪し、文化を汚しているせいである。だから彼らを排除すれば、社会は原初の清浄と豊饒性を回復するであろうという思考型を「ゼノフォビア」と呼ぶ。・・・今日本にそのタイプの政治的言説が流行しているのは、それだけ私たちが毒性のつよい不安にとらわれていることを意味している。(P90)
●枢要な事案は閣議決定して遅滞なく実施し、立法府での審議には時間をかけない。憲法条文は内閣の都合でそのつど好きに解釈する。それを統治の理想とする人々はもはや「改憲派」とは呼ばれまい。「廃憲派」を名乗るのが事の筋目だろう。(P202)
●もう成長はない。だったら、その状況に適応して、いかにして「縮みゆく日本」を穏やかにかつ愉快に生きるか、その方策について「知恵を出し合う」時期を私たちは迎えているのではないか。(P233)