とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

死を思えば生が見える

 山折哲雄宗教学者として少なからず関心を持っていた。それでこれまで何冊か本も読んでいるだろうと思ったが、見当たらない。改めて略歴を見ると、仏教をベースに宗教学を研究してきた人だった。だとすると、これまであまり読んでこなかったかな。
 本書は2008年に行われたNHK BSでのインタビューを元に制作されたもので、だから全編とってもわかりやすい口語体で書かれている。しかもインタビューなので一つのことを深く掘り下げることなく、次から次へと話題が移っていく。読みやすいが、深いところまではわからない。ただ、若い頃、両親が浄土真宗の布教活動でアメリカに行っていた際に生まれたこと。お寺の息子として寺を継ぐことにわだかまりがあったこと。その他、両親との関係や臨死的体験など、個人的な体験が語られ、山折氏の人となりがよくわかる。語られる言葉もよく理解できる。
 「『無』とは善悪を超越した世界」とか、「共生」だけでなく「共死」が大事とか、表現は具体的である。最終章では、西欧の「個」に代わる大和言葉として「ひとり」があるじゃないかと言われる。「ひとり」とはどういう意味だろう。先に読んだ「『世間』とは何か」と合わせて考えるととても興味がわく。が、答えは載っていない。これからひとりで、自分自身で考えてみるのも面白いだろう。

●私の読みでは、父親を殺した阿闍世王が救われるには、二つの条件があると書いてある。/その一つは、まず良き師、良き先生につくこと。・・・もう一つは深く懺悔する。・・・この二つの条件がそなわる時に初めて、人殺しの阿闍世でも救われる。・・・親鸞の考えたことは、ある意味では限りなく、聖書の現在の考え方に近い。人間の根源悪みたいなものですね。(P58)
●よく聞かれるんですが、「無」と「空」とは違うんです。無我、無常、無心……日本人はよく口癖のように、「無」って言い続けてきた。で、また日本人はあなたの宗教は何かと訊かれると、「無宗教」と答える癖がついている。/ところがあれは、本当に宗教がないということではなくて、日本人の宗教の根源には無の宗教がある、無の信仰がある。(P61)
●結局、無の世界とは何かというと、それは善悪を超越した世界なんですね。・・・それで、善と悪は無に吸収されてしまった。・・・十三世紀の親鸞が、根源悪という問題を主体的に取り上げた。そういう点では、彼はペシミストである。・・・しかし西田幾太郎はオプティミストである。善悪の問題を、無の次元で解消してしまったと。(P63)
●生き物というのは共に生き、やがて共に死ぬ運命にあるものだと。そういう共同体で生きているんだと。だから本当に、共生というものを大事にするなら、共死ということも同時に言わなきゃいけない。「共生共死」と言ってはじめて、共に生きることがいかに有り難い、大事なことか、尊いことかがわかるはず。(P110)
●個とか個性という言葉は、ヨーロッパの近代市民社会が作り出したものなんです。せいぜい二百年か三百年の歴史が作り出した、人間に対する価値観で、しかし重視すべき大切な、正しい考え方だったと思う。/問題は、この西欧市民社会が生んだ個性や個という言葉に対応する、大和言葉がわれわれの伝統の中にはあったに違いない。・・・そう考えた時、私はある言葉を思いついたんですね。ああ、大和言葉には、「ひとり」という良い言葉があったなと。(P127)