とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

文明探偵の冒険

 面白い! 副題は「今は時代の節目なのか」。「序」では、起承転結の4節に分けて、現代が特別な「時代の節目」なのかを知るための文明探偵による旅行記である、と宣言をする。が、子丑寅・・・と十二支がついた各巻では、最初に「暦」、続いて「占い」「オリンピック」「プレフェシーとプロジェクト」と追っていくと、次第に何をテーマにした論考だったかわからなくなってくる。次のテーマは「科学と宗教」。そして次第に「科学とは何か」「科学史」が主なテーマとなっていく。改めて筆者の略歴を見れば、専門は「科学史」「科学技術社会論」。専門について語っているのだ。
 だが、それが面白い。歴史を縦軸に、科学と社会の関係を綴っていくと、「歴史とは何だ?」と問い、そして最後に「時代とは何なのか」と問う。陽の巻と名付けられた最後の章では、江戸時代を取り上げ、実は3つの時期に分けられることを指摘する。時代と言っても「節目」の付け方でどのようにも時代は分けられる。「時間認識は螺旋構造」という指摘もあり、結局、「時代の節目」はどうやって見つけ出すのか。
 最後は直感的に、現代は「近代の終わり」ではないかと言い、次にやってくるのは「中世のようで中世でない時代」ではないかと言う。あくまで直感的に。「今は時代の節目なのか」と問うてその答えを得たところで、それで何になるのだ。それよりもそんなことに思いを馳せながら前向きに生きていく方がよほど意味がある。それで十分じゃないか。次は「没落する文明」でも読んでみよう。神里達博、なかなか面白いじゃないか。

●社会が豊かになり、科学技術が発達し、選択の自由が増えれば増えるほど、多くの個人はどうやら、その処理に苦悩し、自分の決定を回避しながらも納得できるような「選択肢とその効能書き」を、外部の権威に求めるようになっている。/しかし・・・肝心の科学は、一番知りたいことには答えてくれない。そこに、あの「暦注的な存在」がやってきて、耳元でささやく。「今日のあなたは、クリームチーズケーキを食べれば、すべてが順調!」、と。(P46)
ニュートン・・・ガリレオ・・・ケプラー・・・デカルトなど、皆、篤い信仰者ばかりであった。/彼らの考え方は次のように要約できる。すなわち、神は「二つの書物」を書いた。その一つは・・・「聖書」であり、もう一つは「数学の言葉」で書かれた「自然界そのもの」であった―彼らは皆、信仰と科学研究を矛盾なく両立できていたが、それはいずれも、「神の書を読み解く仕事」という点で全く地続きだったからなのだ。(P92)
●過剰適応した生物は、環境変化に弱い。たぶん、失われた20年だの30年だのというのは、とっくに日本は世界で最先端の国になっているのに、昔と同じように「科学知」を外から無料で輸入し、それを「ちゃんとした製品にして売る」というビジネスモデルにすがり続けていたための停滞だろう。(P176)
●科学と政治が、激しく相互作用をする時代に我々は生きているのである。科学と政治が、因果的に結びついている。どちらが原因で、結果なのか、とりわけマクロにはよく分からない。これはもう、ウロボロスのヘビである。事実と価値が、ヘビが自分の尻尾を飲み込もうと輪になっているような状態、なのだ。(P222)
●もし時代をフーリエ級数展開できたならば、さまざまな波長の波が無数に含まれていることが分かるだろう。さまざまな繰り返しが重なって、前に進んでいく。同じことを繰り返しながらも、少しずつ変わっていく。この時間認識は、東洋的円環構造でも西洋的線分構造でもなく、一種の「螺旋構造」のようなものではないか。(P240)