とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ジェロニモたちの方舟

 サッカーの名著といえば「サッカー狂い」(細川周平著)を思い出すが、もう一人のサッカー文化批評といえば「今福龍太」。でも本書は今福の本職・文化人類学に端を発する社会批評本だ。メキシコ、ブラジル、キューバと自ら滞在して調査研究を進めた結果たどり着いた「群島‐世界論」をそれぞれの国・地域における叛抗的歴史・詩・政治・文化から解きほぐす。
 アメリカで強制移住させられたインディアンの叛乱、グアンタナモ基地を抱えつつアメリカと敵対してきたキューバ、200年前の黒人革命から未だに連綿として叛抗するハイチの精神、16世紀の世界周航の旅で発見されたテニアン島からは広島・長崎に原爆を落としたエノラ・ゲイが飛び立った。オバマ大統領を仲間として受け入れるハワイの群島的心性。東松照明チェ・ゲバラの写真に表れる批判的精神。軍事革命に泣いたチリの9.11。ディズニーの文化帝国主義と対照的に混血的文化に魅せられたオーソン・ウェルズの発掘された映画。そしてアメリカ・スペイン・土着フィリピンの三者が完璧に混じり合って混濁するフィリピン。これらの歴史や人生を紹介しつつ、各地で立ち上がった人々をジェロニモと呼んで鼓舞する。
 「群島-世界論」こそがアメリカ的な浸食に対して根底からの叛乱を担う。虐げられ、搾取される者たちはけっして死なず、土地の下から立ち上がり、叛抗する。人間としての真の生き方は領土や開発や経済とは別の、海と群島の包容力・包摂力の中にこそ見出される。与えられた豊かさではなく、つなぎ紡ぎ合った豊かさこそが真に心地よいはずだ。

●ハイチ革命とその後のアメリカの軍事的介入の歴史のなかで、支配的な海外勢力はハイチの黒人民衆に民主主義的な権利を付与すること自体を否定しつづけてきた。・・・アリスティドへの敵対は、潜在的には、この植民地主義に根ざした力の不均衡を正そうとする正義にたいして向けられた、一方的で人種差別的な感情の産物にほかならないのである。(P59)
●カマアイナkamaaina、ハワイ語で「現地に長く住んでいる人」、転じて身内、仲間。人種・民族性を形式的に問うことに固執しない、ハワイ同胞を広く抱きとめる言葉。・・・わずかな文化的異質性をも差別や区別の一指標として精密に分節化してゆく近代の排他的な国家統合原理にたいして、この島の示す包含性・包容力は、私たちが新たに探求すべき群島世界のヴィジョンを深く示唆している。(P119)
●軍事的支配と経済的資源の独占をめざすこの領土性への本能こそ、あらゆる暴力的な侵略行為の源泉にあるからだ。ハウオファは、大陸(=continent、すなわち何かの「容器」=containerとなるもの)が権力という抽象概念の容器として歴史的に機能してきたことを根底的に批判しながら、「海は容器になりえない」と断言して、領土性にいかなる信望をも置かない、海と群島のヴィジョンを高らかに宣揚するのである。(P127)
●豊かな世界が弱い地域を「低開発化する」動的なプロセスが世界「経済」なるものの核心にひそんでいるのであれば、私たちが真に問い直し、攻撃せねばならないのはこの「経済」というプロセスそのものであるかもしれない。「経済的ジェノサイド」とは、究極的には、私たちが自明視する「経済」そのものをジェノサイドにかけるほどの歴史批判=自己批判的な覚悟のなかで語られる、壮絶な思想的決意の果実であるにちがいないのである。(P191)
●アメリカなる原理がグローバルな波に乗って世界を覆い尽くすほど、かえってジェロニモの情念は無数の場所に散布され、流亡し、あらたな抵抗の拠点を世界大の広がりとして築いてきたのである。だからこそ信じなければならない。方舟にのって「アメリカ」なる横暴な力の洪水を逃れたジェロニモたちが、その流謫の境涯のなかで、原初的叛乱を企てる未来の私たちの体内に、青い血流をふたたび溢れさせるであろうことを。そして叛乱の種子は流され、海を漂い、激烈な離散の旅の涯てで故郷へと還流し、アメリカの理念を再び問い直し、更新し、再生させる道にも踏み出そうとしていることを。(P266)