とんま天狗は雲の上

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日本の反知性主義

 内田樹が「日本の反知性主義」というテーマで執筆を依頼した人々による寄稿文集である。収められている執筆者は10名。白井聡高橋源一郎赤坂真理平川克美小田嶋隆名越康文想田和弘、仲野徹、鷲田清一、そして内田樹本人だ。掲載は本人の分が最初に置かれ、後は以上の順番。名越康文内田樹との対談になっており、この対談後に内田本人の分が書かれているようだから、順番は政治論から始まり、社会論、報道ドキュメント論、科学論、哲学と意識して並べられているようだ。
 どの筆者も、「反知性主義」というテーマに戸惑い、どう書こうかと悩んだ旨が冒頭に書かれている。それで、「反知性」とは自分のことかと感じたり、「知性」とは何だろうと考えたり、さらには「反知性主義」を評価したりと、その反応は人それぞれだ。それがまた「反知性主義」というテーマを深く掘り下げている。
 「反知性主義」とは単に安倍首相やその取り巻き、自民党政権ネトウヨなどを揶揄した言葉かと思っていたが、「田中角栄になら当てはまるかもしれない反知性主義思想は、政治家一家の中で培養された二世政治家にははなから存在していない」(P157)という小田嶋隆の言葉はなるほどと手を叩く思いがする。
 また、高橋源一郎赤坂真理の小説家らしい表現も読んで好ましく感じる。映像作家の想田和弘や生物学者の仲野徹の論も、専門的な視点ではあるが、興味深く読んだ。だから、「反知性主義」という言葉は難しい。簡単に使っていい言葉ではないという思いを強くした。しかし一方でまさに「反知性主義」と言いたい事態が進行している。小田嶋隆はこれを「分断が進行している」だと表現する。そうかもしれない。
 いずれにせよ、僕らは、知性的でありたいと思う。身体的にして知性的でありたい。もっと多く開いて、多くの風を感じたい。そして次は「行動」だ。実は「行動」こそが最も重要だ。次は本書の筆者たちに、次なる「行動」について示唆が欲しい。考えている時間は過ぎ去りつつあるような気がする。

●知性は個人の属性ではなく、集団的にしか発動しない。だから、ある個人が知性的であるかどうかは、その人の個人が私的に所有する知識量や知能指数や演算能力によっては考量できない。そうではなくて、その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。(P023)
●この国には「社会」がない。社会においては本来、その構成員のあいだで潜在的・顕在的に利害や価値観の敵対関係が存在することが前提されなければならない。しかし、日本人の標準的な社会観にはこの前提が存在しない。・・・あるいは、「権利」も同様である。敵対する可能性を持った対等な者同士がお互いに納得できる利害の公正な妥協点を見つけるために、社会内在的な敵対性を否認する日本社会では、「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず、その結果、侵害された権利の回復を唱える人や団体が、不当な特権を主張する輩だと認知される。ここではすべての権利は「利権」にすぎない。会社はあるが社会はなく、利権はあるが権利はない。(P108)
反知性主義とは知性の不足に対して形容される言葉ではない。現場での体験の蓄積や、生活の知恵がもたらす判断力を、知的な営為や、想像力が組み上げた合理性よりも信頼するに足るという保守的なイデオロギーのことである。/田中角栄になら当てはまるかもしれない反知性主義思想は、政治家一家の中で培養された二世政治家にははなから存在していないのだ。(P157)
●最初に知性を軸とした対立があって、その結果として、人々が二つの陣営に分裂しているのではない。/順序として、分断が先にやってきていて、その分断を生み出したものとして、「知性」が悪役に仕立てあげられている。・・・われわれは、分断されつつある。で、その結果、二つに分断されたそれぞれの集合の、知性に対する態度の違いが顕在化しているということなのだ。思うに、われわれは、知性みたいな些細なことで対立することはやめて、なるべく早い時期に、きちんとした再分配のある、マトモな社会を取り戻して、この分断の進行を阻止しなければならない。(P194)
●知性は、それを身につければ世界がよりクリスタルクリアに見えてくるというものではありません。むしろ世界を理解するときの補助線、あるいは参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。・・・世界を理解するうえでのこの複雑さの増大に堪えきれる耐性を身につけていることが、知性的ということなのです。(P292)