とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

忘れられた巨人

 カズオ・イシグロの久しぶりの長編が刊行された。イギリスでは今年の3月に発行され、大きな話題を呼んだというが、早くも日本で翻訳本を読めるのをうれしく思う。これまでのように文庫本として発行されてから読もうかと思ったがとても待ちきれない。図書館に納本されたのでさっそく予約した。カズオ・イシグロのファンはこの地方都市でもそれなりに多い。1ヶ月ほど待ってようやく順番が回ってきた。
 アーサー王時代直後を舞台とするファンタジーである。雌竜クリエグが吐く霧によって人々の記憶が忘れられていく。そんな村から抜け出した老夫婦(アクセルとベアトリス)がずいぶん昔に旅立った息子の元を訪ねる旅に出る。サクソン人の部落にたどり着き、その村を戦士ウェスタンと若者エドウィンの二人とともに抜け出して山の頂の修道院へ向かう。途中で出会う老騎士ガウェイン卿。どうやらアクセルとガウェイン卿はかつて同志だったらしい。
 修道院で渦巻く陰謀。秘密の地下道を抜けて逃げ出す老夫婦と若者。ガウェイン卿による獰猛な巨大犬退治。死の淵を何度もめぐりながらいつしか老夫婦は雌竜クリエグが棲むという巨大ケルンまで至る。そこにはやはり雌竜退治をアーサー王から命じられたというガウェイン卿。そしてウェスタンとエドウィンも集まってくる。雌竜退治を競うかと思われたガウェイン卿と戦士ウェスタンだったが、突如、ガウェイン卿は雌竜クエリグを守るのが任務だと言う。そして二人の決闘。衰え、死に瀕した雌竜の首を絶つウェスタン。
 だが雌竜による忘却ゆえに守られてきた巨人=ブリトン人とサクソン人の民族間の憎しみがまた立ち上がる。一方、老夫婦は手を携え、死の島へ渡ろうとする。だがけっして二人では渡れないその島を前に、改めて愛を確かめ合う二人。死を前にした老夫婦による究極のラブストーリー。忘却も真実も越えて二人の愛が響きあう。
 ファンタジーとしての面白さもありながら、究極の人間ドラマ、そして民族間の憎しみと戦い。同時に忘却の力を思う。実に面白い。壮大にしてヒューマン、社会的にして内面的。そして考えさせられる。愛。社会。民族。人間。期待に違わぬ傑作だと思う。文庫本が発行されたらまた買って読んでみよう。その時が今から楽しみだ。

忘れられた巨人

忘れられた巨人

●この霧から解放されたいというお気持ちは確かですか、ご婦人。隠されたままでいてほしいと思うこともあるのではありませんか」/「そう思う人もいるかもしれません、神父様。でも、わたしとアクセルは違います。二人で分かち合っていた幸せなときを思い出したいのです。それを奪われたままでいるのは、夜中に泥棒に入られ、大切な宝を盗まれたのと同じです」(P203)
●尊敬したくなるブリトン人も、愛したくなるブリトン人もいる。それは痛いほどよくわかっている。だが、そういう個人的な感情よりずっと大きなことが、いま差し迫っている。わが同胞を殺戮したのはアーサー王支配下のブリトン人だ。君の母やわたしの母を連れ去ったのもブリトン人だ。ブリトン人の血が流れるすべての男と女と子供を、わたしたちは憎まなければならない。それは義務だ。(P313)
●クエリグが死んで霧が晴れ、記憶が戻ってきたとする。戻ってくる記憶には、おまえをがっかりさせるものもあるかもしれない。わたしの悪行を思い出して、わたしを見る目が変わるかもしれない。それでも、これを約束してほしい。いまこの瞬間におまえの心にあるわたしへの思いを忘れないでほしい。・・・この瞬間、おまえの心にあるわたしを、そのまま心にとどめておいてくれるかい? 霧が晴れたとき、そこに何が見えようと、だ(P334)
●おまえとわたしは、懐かしい記憶を取り戻したくてクリエグの死を望んだ。だが、これで古い憎しみも国中に広がることになるのかもしれない。二つの民族の間の絆が保たれるよう、神がよい方法を見つけてくださることを祈るしかないが、これまでも習慣と不信がわたしたちを隔ててきた。昔ながらの不平不満と、土地や征服への新しい欲望・・・かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出します。遠からず立ち上がるでしょう。そのとき、二つの民族の間に結ばれた友好の絆など、娘らが小さな花の茎で作る結び目ほどの強さもありません。(P384)
●「おまえは霧が晴れるのを喜んでいるかい」/「この国に恐怖をもたらすものかもしれないけど、私たち二人には、ちょうど間に合ったって感じね」/「わたしはな、お姫様、こんなふうに思う。霧にいろいろと奪われなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか。霧のおかげで傷が癒えたのかもしれない」(P410)