とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

21世紀の自由論

 どこかの書評で本書に対して「リベラル批判」といった表現がされていた。確かに冒頭、リベラル批判で論が始まる。しかし次には保守批判があり、ネトウヨ批判が続く。要するに筆者は昨今の不毛な政治状況に飽き飽きしているのだ。安保法案を巡る安倍政権強行採決とデモ、急降下する支持率。しかしそれらはいずれも従来の政治情勢の上に繰り広げられている不毛な事態だ。
 しかし、リベラル、保守ともが拠りどころとする近代のヨーロッパ普遍主義は終焉を迎えつつある。自由や民主主義は、平和と安定、経済的成長とは全く無関係だ。そこで筆者は問いかける。「生存か、自由か」と。
 一方で筆者が見つめているのは、得意のネットワーク社会の未来だ。普遍的なものがなくなり、上も下もない社会で、ネットワーク基盤だけが人々をつなぐ。誰もが当事者になるネットワーク共同体の中で人々が生きるようになる。それが、筆者が描きだす未来像だ。しかしそれが実現するまでにはまだ数十年・数百年かかる。それまでの長い移行期にわれわれはいかに生きていけばいいのか。筆者が本書で訴えたい最大のテーマはそこにある。
 答えは「優しいリアリズム」。主義主張に捉われることなく、いつでもリアルタイムに対応できるリーンな戦略。それが求められている。そしてあくまでリアルに徹しつつ、人々の感情や不安、喜びを決して忘れない。それを「優しいリアリズム」と呼ぶ。言わんとすることはわかるが、それが実現するのはまだまだ難しい。全体の合意として「優しいリアリズム」を実践することは難しいだろう。だが、個人的な生き方戦略として「優しいリアリズム」に徹することはできるかもしれない。
 「ネットワーク共同体」を論ずる第3章後半はすっかり抽象論になってしまう。それも致し方ないことかもしれない。なぜなら数十年・数百年後に訪れるかもしれない未来社会の予想図だから。そしてそれが心楽しいかどうかもわからない。われわれは何のために生きているのだ。たぶん死ぬためなんだろう。なるべく多くの人の迷惑にならず、なるべく多くの人のためになることを行い、一人と社会が向き合って生きていく。つながりの中で生きる。「原点に立ち返ってこれからの社会を考えてみたい」(P228)。筆者が「おわりに」の最後に記した言葉である。保守・リベラルの両極端ではなく、グレーな中間領域で生きていく。

●「社会の外から清浄な弱者になりきり、穢らわしい社会の中心を非難する」/これこそがゼロリスク幻想を生み、デマと陰謀論で日本の「リベラル」を自滅に追い込んでいる元凶にひとつである。日本の「リベラル」には思想はなく、「反権力」という立ち位置だけに依拠している・・・この反権力のエネルギーの根底には、「自分は汚れた社会の外側にいる清浄な弱者である」という立ち位置が潜んでいる。/そういう立ち位置が固定化し、立ち位置そのものが目的になってしまっているのだ。(P68)
リベラリズムは、本当は存在しない「普遍的なもの」「理想的な個人」を目指した。でも近代ヨーロッパが衰退して、普遍の幻想は崩壊している。「普遍的なもの」がないのに自由な選択だけを求められることは、不安しか招かない。だから二十一世紀にリベラリズムは成り立たない。/コミュタリアニズムや保守は、普遍や理想ではなく、古くからの歴史や伝統や共同体に価値を見出し、共同体に参加することに価値があると考えた。でもこれは内と外のあいだに壁をつくって、外側を排除してしまう。「参加を求める」というのは、「参加できない人は排除する」という論理とつながっているのだ。おまけに共同体を善とすることは、息苦しさをもたらしてしまう。/自由であることの困難さを押しつけるリベラリズム。/排除と息苦しさのコムニュタリアリズム。(P145)
●今後の数十年間は、国民国家とグローバル企業のせめぎ合いがさまざまな局地戦とともに続いていくだろう。しだいに国民国家は衰退し、グローバル企業を中心とした新しい秩序が経済的のみならず、政治的にも社会的にも生まれてくるだろう。われわれがやるべきことは、そこにいたるまでの移行期において、どう社会を破滅させず、軟着陸に向けて準備を進めていくのかということだ。(P167)
●私たちの移行期における目標は、私たちの生存そのものである。そして、この日本という国が生き延びていくことである。機会の平等ではなく、結果の平等として富が分配され、誰もが飢餓や貧困で死なないようにすること。将来の不安をできるだけ和らげていくこと。そして海外からの危機を防ぐこと。そういう原点に私たちはいったん立ち返る必要がある。(P189)
●正義を訴えて戦っている者たちも左右の両極端にいるが、その両極端に与することは何の利益ももたらさない。両極端に目を奪われることなく、そのあいだの中間領域のグレーの部分を引き受けて、グレーをマネジメントすること。その際、人々の感情や不安、喜びを決して忘れないこと。これこそが優しいリアリズムである。正義を求めるのではなく、マネジメントによるバランスで情とリアルを求めることが、いま私たちの社会に求められている。(P191)