とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

かかとを失くして 三人関係 文字移植

 昨年末に「献灯使」を読んで、やはり多和田葉子はいいなと思った。ブログを読むと本書は昨年夏に買って、そのまま1年間寝かしていたようだ。その前に読んだ「飛魂」が難解で、「献灯使」を読んだこともあり、しばらく間が空いてしまった。
 それで本書も、多和田葉子の初期の短中篇が3編掲載されている。「飛魂」に通じる難解さ、というか、あふれ出る想像力と言葉を追いかけるのに必死となって、そして突然終わる。「文字移植」は特にそんな作品。少し難しい。一方、「かかとを失くして」は大学卒業後ドイツに渡り、異文化の中で小説を書き始めた作者の焦りや感覚がよく表れた作品。2度読みするとなるほどと頭に入ってくる。そして「三人関係」は三角関係ではなく、あくまで三人関係。私と綾子と秋奈。綾子と秋奈と稜一郎。私と杉本と稜一郎・・・。いくつもの三人関係が複写機の前で妄想に浸る私の中に形作られ、広がっていく。すべて「私が考えた物語」。そんな状況に思い至るとき、ふっと涼しいものが首筋を吹いていく。
 これらの作品を読みながら、改めて女性ならではの身体性についての記述に目が留まった。乳首が二つ・四つと分離していく話。耳の穴から診察をする医者。確か「飛魂」には身体の穴という穴から何者かが侵入していく幻想が描かれていた。自らの身体に対する感覚こそ男性と女性で決定的に違うものに違いない。身体と頭。多和田葉子の初期作品の魅力の一つと言える。

●教わったことは次々忘れてしまうんですかと問い詰められ、違いますよ、ひとつ教わるごとに知識がひとつ消えていくんです、だからだんだん頭が空になってきて、いろんな事を考え出せる場所ができるんです。(P39)
●横たわっていると体が、他人のもののような気がしてきて、私が守らなくても自分で自分を守っていけるだけでなく、逆に体が思考して私を守ってくれそうな気がしてきたのだった。それが証拠に、看護婦たちが内緒話をしているので<私>は恥ずかしく苦しいのに、<体>は笑われても平気で横たわっていて、(P51)
●私は、その場に突然、現れて、秋奈に向かって言ってやりたい。それは私が考えた物語なのよ。あなたの体験することは、私が頭で考えたことだけなのよ、これからもずっと、と。綾子にも言ってやりたい。あなたなんて、私のマリオネットに過ぎないのよ、と。/でも、私は、その家に行きつくことができない。中央線を出発点とすることしか知らない私には、貝割礼駅が見つからないのだ。(P135)
●海が上昇して少しずつ空に変質していくわけではなく海と空とがふたつの国のように国境を接し合っているわけでもなく海と空はお互いに全く触れ合うこともなく存在しているのだから両者を一枚の風景画の中で隣り合うふたつの色域のように見るのはおかしい。旅に出る度に風景が風景画のように見えてしまうのがわたしは嫌だった。しかもわたしは旅をするためにカナリア諸島へやってきたわけではないのに(P138)
●深緑色に光る数個の突起はどうやら<乳首>らしいとそれが分かってきた時わたしは右の胸に痛みを覚え思わずそこへ手をやったがその時はすでに遅かった。乳首がぱちんと割れてふたつになってしまったのだった。わたしはあわてて分離したふたつの乳首をぎゅっとひとつにまとめて強く掴んだ。・・・でもそれが逆に不要な圧力をかけてしまったらしくてふたつの乳首がそれぞれまたぱちんと割れて四つになってしまった。痛い。(P155)