とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ハリルホジッチと日本サッカーの未来

 サッカーマガジンが送るハリルホジッチ体制に向けた批評集だ。巻頭に山口素弘北條聡の対談。続いて、後藤健生大住良之による「監督人事考察」。西部謙司北條聡による「日本サッカーとは何か?」。そして、飯尾篤史、大島和人、川端暁彦による「日本の未来・現実・指針」の各評論が掲載されている。
 最もわかりやすいのは西部謙司の「日本サッカーに定義はあるか?」。メノッティの言葉を使い、日本サッカーの「定義」について協会はどう考えているのかを問う。協会への意見という点では全編そういうスタンスである。後藤健生は「監督人事における技術委員会の存在意義」を問い、北條聡は「目指すべき方向がダッチロールしているのではないか」と批判する。もっとも北條の論は無理に「守破離」にこじつけてあまり説得的ではないが。
 そしてSection 3の「日本の未来・現実・指針」が一番わかりづらい。批判ではなく提案のような気がするが、無責任なサッカージャーナリストたちがピッチの外からのつぶやいているかのようだ。サッカーマガジンは週刊から月刊のサッカーマガジンZONEにして成功したのだろうか。老舗として先鋭的にもなれず、中途半端な感じがしてならない。少なくとも月刊化してから自費で購入したことはない。いつも図書館で読むばかりだ。そしてそんなサッカーマガジンの中途半端さがそのまま単行本になったような感じだ。結局何が言いたいのか。遠吠えに留まっているような気がする。

●交渉の最終段階で、もちろん技術委員長自身が出馬して合意を取り付け、契約を交わすのが当然としても、技術委員長が自ら交渉役を果たす必要はまったくない。技術委員長に求められるのは、交渉や契約を自ら行うことではなく、日本のサッカーの方向性を定め、どのようなタイプの指導者を招聘すべきかという方針を決める仕事であるはずだ。(P71)
●アルゼンチンの名監督の1人、セサル・ルシス・メノッティは、サッカーはシンプルな競技で、それは4つの要素からなるものだと言う。/「定義・発展・補完・継続」/ザッケローニ指揮下の「自分たちのサッカー」は、その「定義」において間違っていたとは思わない。「発展」もあった。できなかったのは「補完」だと思う。(P119)
●ハリルホジッチ監督は、ジーコ監督以降の「日本化」を継承しているようにはみえない。今後どうなるかわからないが、はっきりしているのは世界標準化指向であり、おそらくではあるがアルジェリア方式の導入だ。ワールドカップで1つでも勝つ可能性を上げるにはどうしたらいいのかという現実への取り組みだと思う。/監督はそれでいい。だが、長期的な強化を担っている技術委員会まで同じでいいとは思えない。・・・「継続」を担うのが大きな仕事であるはずだ。「継続」以前に、そもそもスタートラインの「定義」が曖昧、というより聞いたことがない気がする。(P124)
●果たして、今回の人事は、強化方針の継続なのか、転換なのか、そこのところが、いまもって判然としない。仮に継続路線と考えるなら、ザッケローニ政権の「何が」継続されるのか、逆に路線変更なら、なぜ、そうした決断に至ったのか、そこの部分を噛み砕いて説明する必要があったのではないかと思う。具体的な説明がない状態では、やはり今回の人事は、方針転換と考えざるを得ない。(P135)
●方向が定まらないから、必然的にリソースは分散する。つまり日本は、一見すると効率の悪い強化をしている。/しかしそれは今さら変えようがない現実だ。我々は逆にその土壌を活かすしかない。石を高く積み上げる前の、裾野の広がりは既に確保されている。良くも悪くも多様なカルチャーが併存し、生態系として見れば豊かだ。・・・それを上手く組み合わせればイノベーションが起るかもしれない。単にポテンシャルが活かし切られていないだけで、新しいモノを生み出す土壌と種は既に用意されている。(P201)