とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

うつくしい列島

 2010年から11年にかけて「ナショナル・ジオグラフィック日本版」に連載された「うつくしい列島」と、1989年から90年にかけて雑誌「旅」に連載した「風景の彼方へ」という時代を隔てた二つのエッセイを全部で36編収録している。後者は1991年に単行本となり、94年には文庫本として発行されたが、既に絶版となっている。いずれも自然をテーマにした紀行エッセイだが、後者は既に25年以上も経つというのに全く色褪せていない。すなわち自然は25年やそこらでは変わらないということだ。そして筆者の目も変わらない。自然を前に畏怖し、受け入れる。

 取り上げる自然と風景の多くは個人的には行ったことのない場所が多く、ぜひ私も一度行ってみたい、見てみたいと思うところが少なくない。しかし筆者ほどの観察眼でその自然を理解することも感じることもないだろうから、かえって自然破壊に加担するくらいなら、筆者の紀行文を読んで満足していた方がマシかも。

 それにしても25年を隔ててもほとんど自然が変わらないことにびっくりする。一方で石垣島の白保など大きく変わったところも少なくない。そして、その変わる/変わらない自然の前で「東京という日本の首都は(まるで脅えるように)大陸への経路から最も遠いところに身をすくませている」という描写に痛快感を覚える。日本列島全体から見れば東京はほんの一部の地域に過ぎない。

 

うつくしい列島: 地理学的名所紀行

うつくしい列島: 地理学的名所紀行

 

  

○しばらく前から、人間がいない場所の風景という考えが気になってしかたがない。/前にも悩んだことだが、人がいなくても風景はあるか?・・・冬、そこには誰もいない。雪原に木が立ち、ミズゴケやスゲやミズバショウは雪の下に埋もれて温かく眠っている。・・・そこに朝日が射し、昼は雪がまぶしく、夜は星の光ばかりの闇。人間はいない。・・・ぼくは今、自分が雪の尾瀬のこの場所にいないことに軽い失望を覚える。本当を言えば、自分も一本の木となってこのカラマツの前に立っていたかった。(P72)

○きちんと屋根の雪を下ろして、道も踏み固めて・・・ほとんど一日がかりで働いても、その晩またどかっと雪が降ったら、次の日は最初からやりなおし。前の日のあれほどの労働の成果はどこにも残っていない。/最近では人の精神が軟弱になっていて、年間の経済成長率を先に決めたりする。つまり、生活は向上してあたりまえと思っている。すべての労働の成果は蓄積可能と信じている。しかし、そんな勝手な理屈が通用するようになったのはつい最近の話であって、もともとは昨日と同じ一日を過ごせることを喜ぶというつつましい暮らしかたが当然だったのではないか。(P165)

○重力は休むことなく常時万物を下に引いているし、雨や風や雪はひたすら山の表面を崩し続ける。全体として山が崩れて低くなっていくのは理にかなったことなのだ。地下から押し上げる力が働かないかぎり、最終的にはアメリカ西部のような広大な平原になって収まるのだろう。われわれが数十年とかせいぜい数百年の単位でしか山を見ないから、「動かざること山の如し」などと不用意なことを言うのである。(P195)

○資本主義は表面を飾ることの上手な体制だが、広々として人の少ない土地は人口過剰の大都市よりも飾るのがむずかしい。・・・制度のいかんにかかわらず、もともと人は自然に合わせて生活を作ってきた。・・・二つの土地の自然が似ているならば、人の暮らしぶりにも似た面があらわれる。ひょっとしたら、そういう意味でも津軽海峡宗谷海峡よりも広くて深いのかもしれない。自然が連続的に変わってゆくのと同じように、いかに国境を作っても人の暮らしやものの考えかたはゆるやかに連続的に変わっているのかもしれない。(P212)

○もともとはどこへも通じていなかった太平洋に面した側が表日本という名称で呼ばれている。そして、東京という日本の首都は(まるで脅えるように)大陸への経路から最も遠いところに身をすくませている。東京は大陸の充実よりも太平洋の空白とそのはるか彼方にあって抽象的なアメリカの方を好むかのごとくだ。(P278)