とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

職業としての小説家

 本書について非常に高く評価する文章を多く見かけた。それでかなり期待して読み始めたが、正直な感想を言えば「それほどでもない」という感じ。もちろん村上春樹らしい平明な文章で、自らいかに小説を書いてきたか、小説とは社会にとってどういう存在かなどを正直に書き連ねていて、内容的には大いに共感する。しかしあとがきで筆者自身書いているが、どこかで読んだことのある内容も多い。それらをまとめて読めるという点では意味があるだろうが、またアメリカでの出版に深く関わって奔走したことなど、これまであまり知らなかったこともいくつか披露されているが、基本、小説はどうやって書いたらいいかというテーマで書かれており、当面小説を書こうという気のない私には、他人事で読んでしまう部分も少なくない。それで全体的には面白いが、薄まった感じがするのも事実。個人的には小説論・小説家論だけでよかった。

 それでも常に弱者や異端者に目を向け、彼らがいるからこそ社会が成り立っている、世界に奥行きが生まれるという姿勢には大いに共感する。村上氏の変わらぬ視座があってこそ、僕らも偏らずにいられる。そして救われる。村上氏は「自分は普通の人間だ」と言う。そして普通の人間とは常に弱者であり、少数派なのだ。自分も普通の人間だと思う。もちろん当たり前だけど、その点で村上春樹と同じなのはすごく自信になるし、生きていていいんだと慰められる。普通の人同盟があったらすぐにも加盟したい。そこにはきっと村上春樹もいるはずだ。

 

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

 

○「世の中にとって小説なんてなくたってかまわない」という意見があっても当然ですし、それと同時に「世の中にはどうしても小説が必要なのだ」という意見もあって当然なのです。それは念頭に置く時間のスパンの取り方にもよりますし、世界を見る視野の枠の取り方にもよります。より正確に表現するなら、効率の良くないまわりくどいものと、効率の良い機敏なものとが裏表になって、我々の住むこの世界が重層的に成り立っているわけです。どちらが欠けても(あるいは圧倒的劣勢になっても)、世界はおそらくいびつなものになってしまいます。(P22)

○ジェームズ・ジョイスは「イマジネーションとは記憶のことだ」と実に簡潔に言い切っています。そしてそのとおりだろうと僕も思います。ジェームズ・ジョイスは実に正しい。イマジネーションというのはまさに、脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーションのことなのです。あるいは語義的に矛盾した表現に聞こえるかもしれませんが、「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」は、それ自体の直感を持ち、予見性を持つようになります。そしてそれこそが正しい物語の動力となるべきものです。(P117)

○どんな社会においてももちろんコンセンサスというものは必要です。それなくしては社会は立ちゆきません。しかしそれと同時に、コンセンサスからいくらか外れたところにいる比較的少数派の「例外」もそれなりに尊重されなくてはなりません。あるいはきちんと視野の収められていなくてはなりません。成熟した社会にあっては、そのバランスが重要な要素になってきます。そのバランスの取り方によって、社会に奥行きと深みと内省が生まれます。でも見たところ現在の日本では、そういう方向に向けての舵がまだ十分うまく切られていないようです。(P201)

○ものごとを自分の観点からばかり眺めていると、どうしても世界がぐつぐつと煮詰まってきます。身体がこわばり、フットワークが重くなり、うまく身動きがとれなくなってきます。でもいくつかの視点から自分の立ち位置を眺めることができるようになると、言い換えれば、自分という存在を何か別の体系に託せるようになると、世界はより立体性と柔軟性を帯びてきます。これは人がこの世界を生きていく上で、とても大事な意味を持つ姿勢であるはずだと、僕は考えています。読書を通してそれを学びとれたことは、僕にとって大きな収穫でした。(P210)

○物語というのはもともと現実のメタファーとして存在するものですし、人々は変動する周囲の現実のシステムに追いつくために、あるいはそこから振り落とされないために、自らの内なる場所に据えるべき新たな物語=新たなメタファー・システムを必要とします。その二つのシステム(現実社会のシステムとメタファー・システム)をうまく連結させることによって、言い換えるなら主観世界と客観世界を行き来させ、相互にアジャストさせることによって、人々は不確かな現実をなんとか受容し、正気を保っていくことができるのです。(P285)