とんま天狗は雲の上

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「リベラル保守」宣言

 報道ステーションに数年前から中島岳志の姿を時折見かける。その紹介テロップに「リベラル保守」という言葉がある。気になってはいたが、今回文庫本として発行されるにあたり読んでみることにした。

 実は「リベラル保守」という言葉はタイトル以外では文中でほとんど使われていない。「保守とは何ぞや」が全編に渡り書かれている。しかし筆者が説く「保守」は一般的に認識されている「保守」とは少し違うかもしれない。それは報道ステーションでのコメントを聞いていてもわかる。本書では「第1章 保守のエッセンス」で11項目に渡り「保守」定義・概念について解説をする。11項目とは次のとおり。

(1)保守の本質、(2)保守するための改革、(3)公衆と群集、(4)輿論と世論、(5)伝統の再帰制、(6)正統との再開、(7)政治の万能性を疑う、(8)熱狂への懐疑、(9)中庸という非凡、(10)神なき時代の人間中心主義、(11)現実主義と理想主義、

 あれ、困ったな。項目名を挙げれば「保守」の定義になっていくかと思ったら、意外によくわからない。簡単にまとめれば、「人間中心主義や理想主義、設計主義を離れて、人間の不完全さを認め、過去や習慣を評価しつつ、社会の漸進的進歩を進める」といった感じだろうか。

 現実的なのである。その点は私も深く同意したい。しかし、筆者が取り上げる知識人は、西部邁福田恆存などの保守思想家なのだ。これまで正直、西部邁は敬遠してきたし、福田恆存は名前こそ知れ、読んだことはない。どちらかと言えば「怖い」イメージが強い。しかし西部邁は筆者の直近の師匠のようだ。それでいてこれほどまでに違った方向を向くのか。それとも最近の西部邁中島岳志のようなことを主張しているのか。

 そんなことはどうでもよい。筆者の視点には賛同する点が少なくない。第2章以降は、筆者の保守的思考を現実の問題に当て嵌め、現在の政治や社会的風潮を批判する。而して、保守とは何ぞや。良質な保守は人間への信頼と社会の秩序を願っている。文中で何度も登場する「宗教」への信頼も気にかかる。それを日本でどう考えればいいのか。それに対する説明はない。

 

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

 

 

○個人の理性は、常に自己を超える存在に規定されて形成されます。理性の中には、歴史と他者がビルトインされています。理性は抽象的な存在ではありません。時間的・空間的背景を伴う具体的存在です。(P20)

懐疑主義的人間観をもつ保守思想家は、エリートの設計主義による理想社会の実現という構想に対して、疑いの目を向けます。・・・保守は進歩に対する楽観的・希望的な観測などよりも、歴史的に蓄積されてきた社会的経験知を重視し、慣習や社会制度を媒介として伝えられてきた歴史の「潜在的英知」に信頼を置くのです。・・・ただし、人間の進歩に対する懐疑の念を共有するものの、人間社会の変化そのものを否定するわけではありません。・・・保守は、時間的変化に応じ、歴史に潜む潜在的英知を継承するための漸進的改革を進めようとします。その漸進的改革は、根本のところで「進歩に対する諦念」を内包しています。(P38)

トクヴィルは、人々が教会の活動や地域コミュニティ、社会的結社などに参加することを通じて異質な他者と出会い、その他者の価値観とも葛藤に耐えながら合意形成をすることの重要性を説いています。さらに現在にばかり関心を向け、浮き足立つ傾向のある大衆を着地させるために、過去との連続性を担保する共同体的「伝統」(「心の習慣」)こそが必要であり、社会の流動性を食い止め、不安定性を埋め合わせるために「宗教」が重要な役割を担うと説いています。/バークやトクヴィルが問題視したのは、デモクラシーという制度そのものではありません。彼らは、近代のデモクラシーの根底にある近代合理主義や「神なき時代の人間中心主義」が人間の能力への過信を助長し、結果的に社会秩序の破壊を生み出すのだと論じました。(P98)

○人は環境に埋もれて生きているだけでは、アイデンティティを構築できません。重要なのは、その環境を客体視した上で、再度、主体的に引き受け直す意志を持つことです。・・・自己はいかなる社会の中で主体を形成し、その社会に規定づけられながら生きているのか。私たちはいかなる役割を引き受けながら、社会の中で生きているのか―。/そんな自己の宿命を認識し、それを意識しながら生きることが、人間の本質であると、福田は指摘しているのです。(P155)

○保守が擁護すべきデモクラシーとは何でしょうか。ナショナリズムとは何でしょうか。/それはトポスの論理を基礎としたデモクラシーであり、ナショナリズムです。国民それぞれが自らの社会的役割を認識し、責任と主体性をもって「場所」を引き受けるところから生まれてくるデモクラシーであり、ナショナリズムです。(P226)