とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

いつも彼らはどこかに

 解説を江國香織が書いている。その中で、小川洋子は職人だと言う。そしてこの短編集にはどの作品にも「欠落」が表現されており、「勇気あるいは動物という名前の、小さな光が灯っている」と言う。

 「欠落」? 私にはそんなイメージがなかったのでもう一度さらっと読み返す。確かに登場人物は何かしらの「欠落」を抱えているのかもしれない。そしてそれを「動物」たちが埋めている。・・・そうだろうか? 私は江國香織の名前は知っていても、その作品は一つも読んだことがない。だからというわけではないが、そんな短編集としてまとめてしまってよいのだろうかとふと思う。

 確かにこの短編集に集められた小説にはどれも何らかの「動物」が登場する。2012年から約半年間、「新潮」に連載された短編を集めたものというから、多分、最初からそのつもりで書いているのだろうが、それにしては安易に「動物」に流されず、あくまでさりげなく彼らは登場する。いや、正確には動物でさえもない。ウサギの看板であったり、置物の犬であったり。最後の「竜の子幼稚園」は名称だけ・・・かと思ったら、「身代わりガラス」の中に竜の落とし子がいる。

 全部で8作品。どれが一番好きかといったら、「竜の子幼稚園」かな。身代わり旅人の女性がラストでは死んだ弟と一緒に歩き出す。やはり「動物」たちはいつもどこかにひそんでいては、時に我々に勇気と励ましをくれるのだろうか。いや「断食蝸牛」などは寄生虫に冒された虹色の触角の蝸牛に埋め尽くされる話。「動物」たちが常に勇気や希望とは限らない。それでもそれはいつもどこかにひそんでいて・・・。

 極上のファンタジックな小川洋子ワールドでした。

 

いつも彼らはどこかに (新潮文庫)

いつも彼らはどこかに (新潮文庫)

 

 

○とにかく遠くへ行くのが怖かった。今自分がいる地点からの移動は、彼女にとってはそれだけ危険に近づくことを意味した。その遠いどこかに何があるのか、もちろん彼女にもはっきりとは言えなかった。ただそこでは、取り返しがつかないほどの不穏でおぞましい何かしらの予感が渦巻き、いつでも彼女を暗黒の底へ引きずり込んでやろうと待ち構えている。・・・デモンストレーションガールは彼女にとって好都合な仕事だった。一日中同じ場所に立っている。どこにも動かない。・・・時折彼女は思う。モノレールと一緒に自分が描いている、二つの行き止まりに守られた軌跡について思いを巡らせる。(P14)

○森のどこかではビーバーが自分の棲みかをこしらえるため、太い木と格闘している。自分に与えられたささやかな歯で、諦めることも知らないまま幹を削ってゆく。不意に、その瞬間はやって来る。一本の木が倒れる。地面の揺れる音が森の奥に響き渡る。しかし誰も褒めてくれるものはいない。ビーバーは黙々と労働を続ける。/もう決して会えない人も、たぶん二度と会うことはないだろうと思う人も、骨の姿でしか出会えないものも、隔てなく私の胸の中に浮かんでくる。皆、自分の仕事をしている。私は小枝を置き、再び小説を書きはじめる。(P61)

○商品はどれも安物で、お座なりだった。何かしら動物の形をしていたり、絵が載っていたりする品々を寄せ集め、とりあえず並べてある。そんな風情が隠しようもなく漂っていた。/けれど子供たちは、お土産に何か一つでも買ってもらえれば、この世で自分ほど幸福なものはいない、という表情を浮かべた。・・・彼らはまるで、目の前にいるおばさんがぬいぐるみを作った本人であるかのような、この人こそ楽園の女王様であるかのような目で、私を見つめるのだった。(P157)

○竜の落とし子は・・・まるで姉と弟のように、二匹仲良く並んでいた。/「ああ、よかった。旅の途中で3月3日に出会えるなんて」/彼女は自分の身代わりガラスを手に取り、太陽の光にかざした。そこには、プリンのカップが・・・・それから苺ジャムの小瓶もウエハースも、二枚の板チョコレートもあった。/「チョコレート、食べなかったの?」/彼女は尋ねた。/「お姉ちゃんを待っていたんだ」/と、弟は答えた。/「まあ、そうなの」/「うん」/二人は竜の落とし子のように肩を寄せ、再び歩き出した。身代わりガラスを胸に、遠くどこまでも一緒に歩いていった。(P246)