とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

戦前回帰

 筆者の山崎雅弘とは誰だろう? 著者略歴には「戦史・紛争史研究家」とある。ネットを見るとゲームのグラフィックやシミュレーションゲームの制作など幅広く活動をしている。戦史関係の本も多い。最近は反戦のスタンスで雑誌や新聞で記事掲載されることも多いようだ。

 本書でも安倍政権が進めようとしている「戦前回帰」の動きに対してはっきりとノーの姿勢を打ち出している。だが本書の最大の特徴はそうした姿勢や批判ではなく、日本が太平洋戦争で敗戦の道へ向かっていった要因を当時の史料を取り上げて明らかにしている点だ。具体的には「国体の本義」(文部省1937年)や「国体明徴と日本教育の使命」(池岡直高1936年)、「我が国体と神道」(文部省1939年)、「神道指令と戦後の神道」(神社新報社1971年)など多くの史料を精読し引用している。これらを通じて、日本を敗戦に導いたのは「軍国主義」や「軍の暴走」ではなくて、その根源には「国家神道の政治体制」があると指摘する。

 敗戦で一度は壊滅するかと思われた「国家神道の政治体制」は、朝鮮戦争の勃発とともに再び立ち上がり、回復を果たして、今また日本政治の根幹に迫ろうとしている。「日本会議」や「神道政治連盟」の国会議員懇談会に所属する国会議員の何と多いことか。「日本の伝統・文化」「日本らしさ」といった言葉で日本「国」のすばらしさを称揚した挙句、「国」は国民ではなく「国体」にすり替わり、再び国家滅亡への道に導かれていく。

 妄想という指摘があるかもしれないが、確かに今再び「戦前」のような雰囲気が漂い始めた。よくよく社会の変化に注意していないとまた知らず知らずのうちに同じ道を辿っているかもしれない。今度こそ本当の意味で日本国の滅亡が待っている、そんなことにならように。

 

戦前回帰

戦前回帰

 

 

○当時の日本では、軍人も市民も「国を守る」ための奉仕や犠牲を「国民としての当然の義務」だと理解していましたが、そこで語られる「国」とは、国民ではなく「天皇を頂点とする国家体制」を指していました。・・・当時の「国家神道の政治体制」は、それ自身を守るためなら、自国の軍人や市民をどれほど死なせても、非難されることはなく、むしろ「国のために犠牲になった名誉」を、それらの死者に与える資格を持つ唯一の絶対的権威でもありました。(P083)

○肉体は死んだけれども、霊魂は「生きて」靖国に帰る、つまり「死んだけれど死んでいない」という、宗教的であるがゆえに客観的な検証が不可能な曖昧さを持つ「物語」は、当時の日本軍人や国民の間で常識とさえ呼べるほどの価値判断として、広く定着していました。・・・日本の軍人が、いくら死んでも「失敗」や「悪いこと」とは見なされない。むしろ死者が増えることで、その原因となった「戦争の状況」と「戦争で死んだ日本軍人」が美化・称賛されて、死地へと向かう日本軍人がさらに増大する。/こうした相互作用の結果が、現代の価値判断基準では想像することも難しい、沖縄戦や特攻、餓死などの、すさまじい形での人的損失でした。(P098)

○本来、ジャーナリズムが担う社会的な役割の一つは、政策の不具合を示す事実を「情報」として社会に提示し、政府が国民を導く政策の手法や方向性が「間違っている可能性」を示唆して警鐘を鳴らすことです。しかし当時の日本では、そうした情報は、国が進む道を却って混乱させかねない「ノイズ」と見なされ、社会から排撃されていました。・・・言い換えれば、当時の日本政府は「政策が間違った道を進んでいないかどうか常に確認すること」の重要性を考慮せず、「政策は常に正しい」との前提に立ち、ひたすら「現在とっている道で国が前進する速度をさらに加速すること」だけに関心を注いでいたのです。(P209)

○もし、人命軽視や人命無視の考えが、人間の「悪い心」や「冷酷非情な心」によるものであるなら、「良心の呵責」や「後ろめたさ」、「罰が当たるという恐怖」など、教育による内面的なブレーキで抑制できる可能性があります。しかし、それとは逆に「良い心」や「道徳的に正しくあろうとする心」が生み出す人命軽視や人命無視の考えには、それを止めるブレーキはありません。むしろ、それを生んだのと同じ教育によって、アクセルをさらに深く踏み込むかのように、事態が加速していくこととなります。(P223)

第二次世界大戦における日本の決定的な敗北は、日本の歴史における「最大の危機」でした。建国神話の暦を借りるなら、建国から2675年という長い歴史の中で、日本が「国」としての主権を他国に奪われたのは、後にも先にも、この1945年の敗北ただ一度きりでした。・・・国の主権も天皇・皇室の存続の是非も、日本が他国の人間に委ねたことは、この時以外にはありません。/その現実を正面から直視するなら、・・・その時代の国家体制を擁護・賞賛したり、現代にそれを復活させようとする行いは、いわゆる「愛国」とは正反対の行為であろうと思います。(P363)