とんま天狗は雲の上

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村上春樹は、むずかしい

 これまでいわゆる「村上春樹論」はあまり読んでこなかった。それは一つには、村上春樹を読んだ後の自分なりの読後感を大切にしたかったこともあるし、他人の解説を読んでそれに影響されて自分なりの理解が変化してしまうのを恐れたためでもある。それで読んでもいないものを批判するのもどうかと思うが、これまでの多くの村上春樹論は、村上春樹を礼賛する類のものが多いのではないか。しかし本書は違う。村上春樹に対峙し、批判するでもなく、礼賛するでもない。相対して批評をしている。

 よく「村上春樹の本の中でどれが好き?」なんて会話をすることがある。僕の場合、「海辺のカフカ」かな。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」も好きだな。でも、これらを書いている村上春樹も次第に年齢を重ねている。成長しているという言葉が正しくなければ、変化している。そしてその変化に応じて、作品も次第に変化をしている。考えてみれば当たり前のことだ。

 本書では、村上春樹の作品を「ニューヨーク炭鉱の悲劇」までの初期と「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」以降の現在を除き、「羊をめぐる冒険」から「1Q84」までの作品を前期・中期・後期と分類している。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「パン屋再襲撃」までの前期は、<個の世界>、デタッチメントの時代、「ノルウェイの森」から「ねじまき鳥クロニクル」「レキシントンの幽霊」までの中期を<対の世界>、コミットメントの時代としている。そして「スプートニクの恋人」以降は<父との対峙>、縦軸の時代だ。

 またもう一つの分類では、オウム真理教の事件を取材した「アンダーグラウンド」から阪神大震災をテーマにした「神の子供たちはみな踊る」までを転換期に、隠喩的な世界から換喩的な世界へ、他界(死者の世界)から異界(もう一つの世界)へ、否定性から内閉性へと変化していると説明する。

 これらはよくわかる。確かに村上春樹は成長し、年を重ね、経験を積み重なることで変化し、またその作品における深みも増している。そして「1Q84」のBOOK4が東日本大震災原発事故で見送られて以降、村上春樹は新しい時代に入ろうとしている。それが「終わりに」で綴られる「大きな主題」と「小さな主題」である。「小さな主題」とは、疎外され逃避する「否定性」の人物から、傷つくことを恐れず積極的に関わることで内閉した状況から脱出しようとする物語であるとすれば、「大きな主題」とは、原発事故以降の社会をどう形作っていくべきかと課題である。筆者は村上春樹に対して、今こそ傷つくことを恐れず社会に出でよと促す。その自覚は村上春樹にもあるだろう。だからこその期待であり、叱咤である。

 村上春樹がそれを乗り越えたとき、どんな作品が披露されるのか。そろそろ次の長編小説が執筆・披露されてもいい頃だ。次の作品に期待しよう。でもそれは生半可に達成できるものでもないだろう。何にしろ僕らはただ待つことしかできない。村上春樹が次に行動に移るときを、そしてその作品で社会を動かすときを。

 

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

 

 

○否定性の否定、「気分が良くて何が悪い?」は、村上龍のいう「欲望」の勝利とは違って、ここで、より貧しい階級の出身者である「小指のない女の子」からの、でもあなたも「ゆたかな社会」の恩恵を受けた同じ穴の狢なのでは?という一撃にさらされる。・・・この小説【風の歌を聴け】は、「否定性」を抱えた「鼠」が徐々に時代遅れになり、没落していくさまを、このような重層的な攻勢のもとに描いている。新たな「肯定性」が、没落する「否定性」への連帯感をなお失わず、また自らの限界の意識をも手放さず、これを悲哀の感情のもとに見送っているのだ。(P38)

中島梓は・・・オタクよ、内閉的な世界から「外に出ろ」・・・と書いたのだが、村上は・・・内閉世界の問題の解決は・・・近代的な問題の枠組みそれ自体から離脱することによってしか見出されないのではないか、という新しい方向に道を切り開いていたのである。・・・もはや戦場が、内閉世界のただなかに移っており、否定性のゆくえを追うだけでは辿りきれないことを、村上はこの長編【世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド】で語っていたのである。

○『羊をめぐる冒険』ではその殺菌化は、近代日本批判の「否定性」の文脈それ自体をカッコに入れること、つまり否定性の脱構築、デタッチメントを意味していた。これに対し、『ねじまき鳥クロニクル』に取り上げられる東アジア侵略、新京の植民地生活、ノモンハン事件の歴史的記述としての力点は、近代日本批判の従来型の「否定性」を殺菌し、脱構築しながら、なおかつ、別種の新しい「否定性」を作り上げること、コミットすること、に置かれている(P131)

○麻原の提示した物語は、稚拙きわまりない。しかし、物語を「浄化」するだけでは足りないのではないか。あの麻原の物語の力は、むしろ「稚拙」であったからこそ、もたらされたという面もあるのではないか。つまり、「「青春」とか「純愛」とか「正義」といったものごと」が、多くのものが洗練されたいまでは時代遅れの、がさつなものとしてしか見られない。でもその洗練の間隙をついて、稚拙なものが、その稚拙さゆえに「かつて機能したのと同じレベルで」いま切実に、人々の心に働きかける―そのようなことが怒っているのではないか。(P177)

○「正義」とは何だろうか。/私たちは戦争のなかで、互いに殺し合う。そしてその後、戦争が終わると、平時の世界に帰還する。戦争が終わるとは、ある意味で「正義」という魔法が解けることだ。そう考えてみよう。そうすれば、「正義」の魔法が解けたあとの世界に投げ出された青豆の運命は、そんなに私たちから、遠いものではないことがわかるはずだ。(P231)