とんま天狗は雲の上

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キリスト教と戦争

 この世から戦争が絶えない。もちろんキリスト教世界だけでなく、イスラム世界や日本を始めとする仏教・儒教圏においても歴史と言えば戦争を中心に動いているようにさえ思う。一方で、絶対平和主義を唱えるキリスト教徒は多い。もちろん仏教徒も平和を唱えるし、イスラムだってそうだ。しかし世界の近代の歴史がアメリカやヨーロッパを中心に回っていることを考えれば、キリスト教と戦争の関係を考えてみるのは意味がある。キリスト教の何が戦争に駆り立てるのか。キリスト教は「愛と平和の宗教」ではなかったのか。筆者はキリスト教徒で、現在は桃山学院大学で宗教学と戦争論を研究している。その立場からキリスト教と戦争の関係を考える。

 序章「キリスト教徒が抱える葛藤と矛盾」ではまず現在のキリスト教と戦争との関係を概観する。米軍を始め多くの軍隊に従軍チャプレン(僧職者)が帯同し、兵士たちの心を癒す役割を負っているという。キリスト教にとって戦争とは何なのか。そこで第1章以降、カトリックプロテスタントそれぞれにおける戦争への立場や表明、宣言、決定などを追っていく。キリスト教は正当防衛を許すだけでなく、正戦論を掲げて正しい戦争を擁護し、時に勧めたりしている。

 第3章では、戦争と平和について聖書でどう書かれているかを検証する。思った以上に旧約聖書は戦争と虐殺の描写に満ちている。新約聖書では直接戦争や暴力を記述することはないが、信仰を戦争に喩える表現は非常に多い。続く第4章と第5章では初期キリスト教の状況を取り上げ、実はキリスト教と軍隊は親和性があることを明らかにする。修道士は戦士、修道院は城壁。

 終章「愛と宗教戦争」で、人はなぜ戦うのか、愛とは何かなど、改めて宗教と戦争の関係を考える。イエスは「ヨハネによる福音書」で「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」と愛を命令する。人間は命令されなければ愛することができない存在だ。「人は、愛という言葉のもとで、ずるいことや、卑劣なことでもできてしまう」(P223)。宗教が人を救うのではない。宗教はあくまで人とともにいる。人が宗教を作っている。そのことを理解する必要がある。戦争がこれほど多いのはキリスト教だけの責任ではないし、詰まるところ、人間の問題なのだ。

 

キリスト教と戦争 (中公新書)

キリスト教と戦争 (中公新書)

 

 

○戦争は人間ならではの営みであるように、キリスト教信仰それ自体も、所詮は人間的な営みに過ぎない。・・・キリスト教は、それ自体が「救い」であるというよりも、「救い」を必要とするのに救われない人間の哀れな現実を、これでもかと見せつける世俗文化である。キリスト教があらためて気付かせてくれるのは、人間には人間の魂を救えないし、人間には人間の矛盾を解決できない、という冷厳な現実に他ならない。(はじめにP2)

新約聖書には不思議なことに、軍事的比喩が多く用いられているのである。具体的には、神は「万軍の主」、霊は「剣」、信仰は「盾」と表現される。・・・愛と平和を祈り、非暴力を訴えるところの「信仰」は、逆説的にも「戦い」「戦闘」のイメージでもって語られているのである。(P94)

○もし最初からすべてのキリスト教徒が「平和主義的」に振る舞っていたら、キリスト教徒は絶滅していたか、せいぜい小さなセクトであるにとどまっていたのではないかと思われる。後のキリスト教徒は、実際には、異教徒や他教徒を迫害し、戦争や植民地支配を行って勢力を拡大し、安全保障にも現実的に取り組むことで、生存し、仲間を増やしてきた。・・・キリスト教は真理であるから世界に広まったのだ、などと思い込んでいるとしたら、それはナイーブというよりむしろ傲慢である。(P136)

キリスト教徒を神に仕える「兵士」ないしは「戦士」と捉える見方は、キリスト教の初期からあった。初期の教会指導者たちは、規律と服従を重んじる教団形成のために、ローマ軍の組織を見習ったとも言われている。・・・実際に武器を手に戦う世俗の軍隊と、精神的な事務を担う修道院は、両極端に対立するものではなく、むしろ補完しあうものであり、よく似た仕事であるとも考えられたのである。(P152)

○多くのキリスト教徒は、「平和、平和」と口にするが、およそ人間の口から叫ばれる平和とは、ほとんどの場合、誰かにとって都合の良い「秩序」に他ならない。それは誰かによって作られ、誰かによって維持されるしかないものである。・・・ほとんどの場合、「戦い」は平和のためにと思ってなされるのであるから、平和を望む気持ちと、戦いを決断する気持ちとの間に、根本的な違いはないのである。・・・戦争についての問いは、人間の本性についての問いであり、戦争観とは人間観の応用に他ならないと言ってもよいだろう。(P212)