とんま天狗は雲の上

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ぼくらの民主主義なんだぜ

 この本が書店の書架に並んだときにはパラパラと立ち読みして、それで買おうという気は起きなかった。先日、小熊英二「論壇日記」を読んだら、高橋源一郎朝日新聞の論壇時評を執筆するための論壇委員としてのメモだと書かれていた。その論壇時評を集めたのが本書だ。で本書を図書館で借りることにしたのだけれど、あくまで小熊英二複数いる論壇委員の一人であり、論壇時評は高橋源一郎の文章として書かれている。そもそもその連関を探そうとすることは無意味なのだ。それであまり期待せず本書を読み始めた。

 本書は東日本大震災直後の2011年4月から2015年3月までの4年間の論壇時評を集めている。2011年4月に始まったというのは偶然だったが、思えばそれから5年(本書の期間では4年間)も経った。そして時代も大きく変わった。早い時期の時評で、東浩紀の「福島第一原発観光地化計画」を「『フクシマ』を忘れないようにするための提案だ」と肯定的に書かれているが、いまや東の提案を覚えている人がどれだけいるだろう。

 慰安婦問題に関する記事も多い。まさに朝日新聞が誤報謝罪をして、この話題の中心であったわけだが、この評論では、歴史とは何か、過去とは何かを問う内容の記事が他にも多くある。過去は現在を生きる我々自身の問題であり、そこから未来を作っていくそのスタートラインなのだと主張する。確かにそうだ。だが同時にその言葉にはどこか外から批評しているような感じがする。論壇時評としてはそうだとしても、ではぼくらはどうすればいいのか。

 「ぼくらの民主主義なんだぜ」というタイトルは台湾における学生による議会占拠の際に学生たちが取った行動を題材としたコラムから引用している。しかしそのせいで、民主主義をテーマとした本かと思ってしまった。そういう点ではあまりいいタイトルとは思えない。一つ一つの記事が短く、しかも発表された論文等を批評する形のため、筆者が言いたいことが十分表現されてはいない。そういう意味では舌足らずな感じが拭いきれない。

 

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

 

 

○日本人は「忘れる」ことの名人だ。戦争や悲惨な公害の災禍も、ぼくたちは喉元を過ぎると、日常の暮らしの中で、いつしか忘れてしまう。このままでは、きっと「フクシマ」も「津波の被害」も忘れてしまうにちがいない。だから、東さんは、日々の消費の欲望のただなかに「フクシマ」を据え、忘れられないものにしようとした。(P95)

○その小さな島がどちらに属するかをめぐって、二つの国は、膨大な資料を基にその帰属を主張する。けれど、朴はこういうのである。/「古文書に依存して『今、ここ』を決めるようなおろかな拘束から自由になる」必要がある。『過去』をもとに現在を考えるのではなく『未来』に向かって現在を作って」いかねばならないのだ、と。(P106)

○「戦争」という時代は、「戦争の体験」を持つ人たちが作り出した、だとするなら、その後に来るのは、受け売りの「戦争の体験」ではなく、自分の、かけがえのない「平和の体験」を持つ人たちが作る時代であるべきだ、という考え方に、ぼくは共感する。(P152)

○学生たちがわたしたちに教えてくれたのは、「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」だという考え方だった。・・・わたしが、原発に反対するフィンランド国民だったとしても「あなたたちの考え方には反対だけれど、情報の公開をためらわず、誠実に対応してくれてありがとう」といっただろう。そこに存在していたものが民主主義だとするなら、わたしたちの国には、まだ民主主義は存在していないのである。(P196)

○なぜ、歴史認識をめぐって、不毛とも思える激しい争いが繰り広げられるのか。あるいは、なぜ、かつては問題でなかったことが、突然、問題として浮上するのか。そして、なぜ、その問題は、いまもわたしたちを苦しめるのか。/それは、「過去」というものが、決して終わったものではなく、その「過去」と向き合う、その時代を生きる「現在」のわたしたちにとっての問題だからだ。(P227)