とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

教養としての聖書

 6回にわたって行われた聖書を読む講座から、受講生との応答も含めて収録している。読む聖書は、「創世記」「出エジプト記」「申命記」「マルコ福音書」「ローマ人への手紙」「ヨハネ黙示録」の6冊。「申命記」が意外だが、「申命記」の「申」は「重ねて」の意味で、モーセの遺言をもう一度収録したといった意味。十戒と戒めが延々と記されており、これを筆者が概説していく。普通に読むと、長々と詳細な律法が記されていて途中でイヤになるのだが、そうした律法を書き記し、伝え、守っていくことがユダヤ教の教えとして重要。そのため本書ではあえて「申命記」を取り上げている。

 その他の書物も、途中を省略することなく、順に概説をしていく。他の聖書本ではポイントだけが説明されることが多いのに対してこの点が違う。すると「創世記」や「出エジプト記」のそれぞれのエピソードが他の聖書でいかに取り上げられ、参照されているかがよくわかる。まず、旧約聖書をしっかりと頭に入れること。それで新約聖書の意味がわかってくる。

 「ローマ人への手紙」では、いかにパウロがキリスト教を作っていったかがわかる。キリスト教はパウロが創設した宗教といわれる所以である。そして「ヨハネ黙示録」も「ヨハネ黙示録が聖書の末尾を飾ったことで、キリスト教は、いまあるかたちのキリスト教に整えられた」と筆者の考えを述べている。確かに「ヨハネ黙示録」の禍々しくも煌びやかな世界があってこそ、今の多くの宗派に分かれ混乱したキリスト教世界があると言えるかもしれない。

 いずれにせよ、最初からきちんと聖書を読むに如くはない。でも一人で読んでもさっぱりわからないし、これまで何度も挫折してきた。本書程度の知識があればとりあえずは現代人としての教養には足りるかな。神にだって論叢を吹っかけるんだから、人間であれば誰であれ、という西洋人の態度はこの聖書からでている。一神教徒のやり方を知っておこう、というのが本書のコンセプトです。ほんと、困った人たちですね、一神教徒って奴は・・・。

 

教養としての聖書 (光文社新書)

教養としての聖書 (光文社新書)

 

 

○アブラハムがイサクを犠牲に献げることをためらわなかったので、Godも感動し、満足した。・・・そこで、人類が救いを必要とするとき、そう言えば自分にも独り息子がいた、とGodは思い出した。イエス・キリストです。イエス・キリストがこの世に送られてきたのは、イサクの犠牲のお返しになっていると思うのです。新約聖書の十字架と、イサクの犠牲の話はペアになっていて、この話がなかったら、キリスト教は生まれてこなかった(P50)

○そもそも、歴史が存在しているという考え方は、その歴史のストーリーを設計し、観ている主体がいなければ成り立たない。インドに歴史がないのは、その主体がないから。インド人は、永遠に時間がグルグル回ると考えてるでしょ。計画もへったくれもないんですね。だけど、ユダヤ人は、神ヤハウェが歴史を計画してると考えるから、歴史に敏感になる。聖書も歴史の本だし、歴史を書きとめるようになる。一神教は歴史意識が強烈なんです。(P61)

モーセは、ヤハウェに向き直って、抗議します。・・・理由があれば、ヤハウェと論争してもよいのですね。・・・相手が神でも議論するんだから、相手が人間なら、大統領だろうと、社長だろうと、そんなの目じゃない。相手の地位が高かろうと、ガンガン議論する。これが聖書を読んだ、一神教徒のやり方です。だったら日本人も、聖書を読まないでどうしますか。(P75)

○人間は死にますが、ヤハウェは死にません。そして、その個人が存在したことを、ヤハウェが覚えているわけです。またヤハウェが、死んだ人びとの子孫を管理していて、繁栄させたり滅ぼしたりします。ですから旧約聖書の、はじめのほうでは、子孫の繁栄が強調され、個々人の生きる目的も、子孫が繁栄し、先祖とともに葬られること、と描かれています。部族社会の時代には、人びとはこういう感覚で生きていたのではないでしょうか。(P109)

○みな思い思いに宣教していて・・・でも結果的に、パウロの系統が残った。パウロの考え方によって、キリスト教が組織されていったのです。/それは、どこが一番のポイントかというと、贖罪論。イエスが十字架にかかって、人類の罪を購ったというのが、贖罪ですね。イエスはなぜそういうことができたのか。それは、神の計画だから。イエスは神の子であって、人びとを救うために、神が遣わした。だからイエス・キリストを、神として崇めなければならない。ここまで踏み込んで、パウロは議論を展開したので、議論の主流になった。(P277)