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とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

漢字と日本語

 実に面白い。先に読んだ「日本語の謎を解く」は橋本陽介という気鋭の研究者が執筆した本だったが、こちらは今年79歳の老研究者。中国文学を専門とする在野の研究者、エッセイスト。大学などに所属せず、ここまで深い知識と見識を有していることに今さらながら驚いた。

 えっ、と思うようなトリビアも多い。元々は「本」に連載していたエッセイをまとめたもので、現在または過去の中国でその漢字がどのように使われてきたか、使われているかを比較し、また同様に、日本での使われ方も古く遡って探り、その結果を披露する。しかし研究者ではないので、知識を誇ったり、説明する調子ではなく、「友人に教えられた」「だからそれを拠り所にさらに調べてみた」「中国の研究者はこう書いている」「この説には概ね賛同できる」など、語り口が実に謙虚で、軽妙洒脱。漢語の読み下し文を読んでいく部分も多いが、それも隣で一緒に読んでいてくれるようで、実にわかりやすく心強い。厳しくもいいおじいさんという感じがする。

○中国では50年以上前から、「華」という字はない。国名は「中か(「化」の下に「十」)人民共和国」である。大人でも「華」の字を知らない人は多かろう。まして小さな子供が知るはずがない。(P150)

 なんて知らなかった。他にも、

○「原」も「元」も「もと」である。・・・たまたま広い平らな土地のことも中国では「ゲン」と言うので、この字(「原」)があてられるようになった。「もと」に原と「はら」(平らな広い所)の原とは無関係の別の言葉なのだ(P52)

 とか、

○積極的の「的」は英語の-ticを音訳した日本語である。(P112)

 とか、

○「著・着」は一見するとだいぶちがうようだが、よく見ると、クサカンムリの下に横棒が二本あり、右上から左下へ斜め棒があり、下に日(目)があって、要するに「著」をてっとりばやく書いたのが「着」である。(P267)

 とか、まったく知らなかった。

 そういえば、同じ本の中で、同じ言葉に漢字とひらがなを使うことを「校正病」と嫌い、それを自由にできることが日本語の良さではないかと(さりげなく)主張する。前後に感じが多ければひらがなにし、読み易くしたいときには漢字を使う。それでいいと言う。そのことも含め、自由に漢字と日本語を使っている。何にも考えずともパソコンが勝手に漢字を適用し、それを疑問も持たず受け入れてしまっている現代だが、今一度、漢字について、日本語について、しっかりと自覚し理解することが必要かもしれない。規則に縛られず、自由に使いこなすこと。それは若い橋本陽介氏が主張していたことと同じだ。

 

漢字と日本語 (講談社現代新書)

漢字と日本語 (講談社現代新書)

 

 

○漢字は漢語(チャイニーズ)を表わす文字である。漢語は一語が一音節、漢字はそれを一字で表わす。つまりどの字も一語であって、固有の意味を持っている。それを自由に組み合わせて無数の表現が可能である。こんなに語と字とが最高絶妙にピッタリ、しっくりしている言語は、地球上にも他にそう例があるまい。(P29)

○漢字はどの字もみな形音義の三つを具えている。形(字)と音(発音・音声)と義(意味)である。「山」なら、この字が「形」、サンが「音」、やまが「義」である。・・・昔から中国人は、語(ことば)と字は別のものだなどと夢にも思わず、一つのことだと思っていた。それを「字」と言った。(P163)

○江戸時代の国学は一部のヘンテコリンな連中が、ここ(日本)が世界の中央の頂上だ、などとけったいなことを言うひとにぎりのグループだった。ところがヒョウタンからコマが出て大日本帝国になると、それが本気になった。「国体」(天皇が頂上の世界)である。(P225)

○人が自分たちの話していることばを、人類の相互に異るが対等の言語に一つ、と考えるのはきわめて高度の認識であって、容易に生ずるものではない。ふつう中国人にとって異人種の口から出る音声は鳥のさえずりと同種のものであって、「ことば」とは認識されない。・・・日本人は昔から日本語をしゃべっているが、それが日本語という人類言語の一種であることを認識したのはごく新しいことだ。(P243)

○二百数百年もの昔から「ム」の字があった。いや字というより△マークと言ったほうがいいかもしれない。「わからない」「だれかさん」の符号である。わからない時、あるいはわかっているがハッキリ言うのをはばかる時、ハッキリ言いたくない時などに△と書く。・・・昔の中国の仏教徒が「佛」「佛陀」を「ム」「仏」と書いたのも、「佛」「佛陀」と直称することをはばかって、「あのかた」の意味で「ム」「仏」と書いた、避諱心理のあらわれである、というのが張涌泉の考えです。(P258)