とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

京都ぎらい

 筆者の井上章一は建築史・建築論の専門家として注目しているし、「現代の建築家」などこれまでもその著作を読んできた。井上氏の方がやや先輩だが、同じ京都で建築を学んだ者として、「京都ぎらい」という気持ちはよくわかる。学生時代から抱いていた気持ちを代弁してもらえる本として期待して読み始めた。

 しかし読み始めてすぐに気付いたが、同じ京都でも、洛外、嵯峨で育ち、宇治に暮らす井上氏の方が洛中に暮らす京都人への嫌悪の気持ちははるかに強い。ほとんど恨みと言っていいレベルだ。骨身に染み入っている。

 第1章はこうした洛中と洛外との違いを中心にさまざまな経験や思い出が語られる。県外から京都にやってきた私とは違い、さらに強烈に、そして陰湿に、京都人の中華意識は強く感じている。私の経験としても、とにかく全ての言葉の端々に裏の意味があるのだ。県外人でもそれを感じるのだから、同じ市民同士ならさらに痛烈に感じるだろう。私の場合もいつまで経っても余所者であることに嫌気を感じて、大学卒業後すぐに就職して郷里に戻ってしまった。大学院へ進学しなかったのはそれも理由の一つだ。

 第2章・第3章では京都寺院への批判に終始する。祇園花街は今や僧侶がパトロンとなって成り立っている。袈裟姿のままキャバクラで騒ぐ僧侶たち。古都税課税でストも辞さない寺院。そんな批判の数々には、あれ、単なる悪口ではないの?と疑問に思うが、第3章の終わり頃に禅宗は当時、ホテルの役割を果たしていたという推察が披露され、なるほどと膝を打つ。

 そして第4章・第5章では南北朝から始まる南朝北朝の確執が現在の嵯峨の状況、洛中の状況に至っているという話題が披露され、改めて日本の歴史は京都を中心に展開してきたことを思い知らされる。確かに洛中の京都人の中華意識の高さには辟易とするが、その背景まで踏み込めば、京都の歴史が見えてくる。建築史の専門家ならではの京都の都市構造と人々の意識との今に繋がる歴史が・・・。そこまで読んでやっと面白いと思えてくる。

 結局、嫌い嫌いも好きのうち。京都ぎらいも徹底すれば、京都の秘密も明らかになるということか。

 

京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)

 

 

○私が亀岡や城陽を低く見るのは、京都の近くでくらしつづけたせいである。いつのまにか、京都人たちの中華思想に、汚染されてしまった。その華夷秩序を、反発しながらも、うけいれるにいたっている。その一点で、私は自分にも京都をにくむ権利があると、考える。私をみょうな差別者にしてしまったのは、京都である。人を平等にながめられなくさせたのは、この街以外の何者でもない。・・・いずれにせよ、私は屈託をかかえながら、京都に近くでくらしつづけている。(P43)

禅宗は、武士層へくいこむことで、その勢力をのばしてきた。武人相手のホテルめいた役目をにないだしたのも、禅宗を中心とした寺々からだろう。庭園美学が禅宗の僧によって形成されていくのも、そのせいだと思う。ホテル的な需要の高まりがあったからこそ、禅僧の美意識もみがかれたのではなかったか。(P124)

会津以北で新政府軍がしめしたむごさは、江戸でのうめあわせだったという可能性もある。江戸城と江戸市中を無事温存させた代償に、どこかが犠牲にならねばならなかった。誰かが血をながさなければ、旧政権を打倒した新政権としてのしめしがつかない。生け贄をもとめるそんな想いもあって、あの戦争はつづけられたのだと思う。(P138)

○私事になるが、私は1955年に生まれている。まだ若かったころに、今よりずっとうらぶれていた寺の姿を、郷里の嵯峨ではながめていた。拝観料をまだとっていない、無料でおがめる、ややあれたままになっていた庭などを。それらがこぎれいになっていったことを、めでたく思わないではない。だが、今の光景を見ていて、私の知っていた嵯峨じゃあないと感じることはある。昔のままでいろとおしつける権利は私にないが、違和感もどこかでいだいている。(P156)

室町通りに焦点のある洛中の優越感は、北朝の隆盛とともにそだっていった。嵯峨のはなやぎは、南朝の衰亡とともに姿をけしていく。・・・もしあの時、南朝が勝っておれば、嵯峨は平安京の副都心でありつづけた。北朝をかついだ足利将軍の門前町が、時代の中心におどりでることもなかったろう。そんな歴史の妄想が、今なお私の気持ちを、南朝へとかきたてる。(P185)