とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

忘れられた日本の村

 ここで紹介されるのは7つの小さな山村・漁村である。戦後しばらく間で水晶を採掘していたと思われる島根県安来市の上小竹、玉山という集落。マタギが住んでいたという秋田県北秋田市阿仁では、アイヌ由来の言葉を探す。兵庫県新温泉町三尾では断崖に囲まれて立つ三尾の集落を訪ねる。そしてそうした漁村が実は古代から中世にかけての時代には、暮らしよい立地であっただろうことを推測する。

 新潟県柏崎市女谷で今も舞われる「綾子舞い」を尋ね、出雲の阿国が踊った「ややこおどり」が今に伝わっていることを確認。さらにこうした芸能村が全国にあることや差別の歴史を垣間見る。第5章大分県青の洞門」は地形を見つつ、洞門を掘ったとされる禅海僧の虚実を考察する。

 さらに、徳島県美馬市木屋平字三ッ木の三木家を訪ね、平成の大嘗祭でなお、三木家から麻服が貢納されたことと阿波山岳武士の関係を見る。南北朝からのつながりである。第7章では千葉県香取市丁子の「丁」の字から、それにまつわる全国の地名を考察する。ちなみに「丁」は「ようろ」と読む。用路や養老などの地名も「丁」から出ている可能性がある。

 まず、全国のさまざまな地名から入る。続いて現地に足を運び、聞取りを行う。ただし本書で取り上げた村々も、その多くは数戸しか住んでいなかったり、三木家に至っては夏場しか帰ってこない。こうして多くの集落は消えようとしている。「忘れられた日本の村」と過去形で語られているが、まだ残っている。しかしその村の来歴などはもうすっかり、地元の人にも忘れられている。それでもこうして記録に残しておくことで日本の村や町、そして国がどのように成立していったかがわかる。

 こうした民俗研究ができるのもあとわずかだろうか。スマホ時代を生きる若者には自動車がなかった時代のことなど想像さえもできない。

 

忘れられた日本の村

忘れられた日本の村

 

 

○この小さな山間の天地にも1300年を超す歴史があり、その盛衰にはなかなか激しいものがある。どんなにささやかに見えても、これこそ歴史と呼ぶべきものではないだろうか。/村の将来は楽観できない。この小集落が消滅するということは、都会の団地が何十年かの寿命を終えることとは異質のできごとのように思える。消滅の予感を抱きつつ、ひっそりと暮らす数人の住民にとって何の意味もないことだろうが、福田寿雄、ミヤ子さん夫婦の率直な話を聞けたことは、わたしには記憶に値することであった。(P40)

縄文人は狩猟・漁撈・採集の民であった。そうして、この一帯には20世紀になるまで、そのような生き方をする人びとがいたのである。農業技術が進歩した今日ならまだしも、ほんの一世紀ほど前まで農業中心の暮らしは難しかったのである。つまり、長年にわたって農業社会の出現が阻まれてきたといえる。/根子を含む阿仁、仙北地方には至るところにアイヌ語に由来する地名が残っている。過去のいつの時代かに、アイヌ語を使用する集団が住んでいたのである。(P61)

○漁村で聞取りをしていると、農業が意外に重い位置を占めていたと知ることが珍しくない。むしろ、それが普通だったらしい。三尾も例外ではなかったのであろう。天保の飢饉の際、三尾で近在の農村より餓死者が少なかったのは、農業と漁業の二本立て経済によっていたことが理由の一つだったのではないか。(P84)

○三尾、青浦、久通いずれも「陸の孤島」の、ほんの一例にすぎない。・・・それは、日本・・・の漁村の一つの定型だともいえる。その立地は現代人の目には不可解に映るかもしれないが、古代とか中世の漁民には、それなりに暮らしよい土地であったに違いない。小なりとはいえ、好漁場を独占できたからである。/そのうえ三尾には、谷とも呼べないようなものながら小渓流が何本か流れている。・・・たとえ小規模であっても農業とくに水田をいとなむには小流れは欠かせない。ここは、その条件を満たしていた。三尾への最初の移住者は案外、土地の有望を当初から見込んでいたのかもしれない。(p87)

新嘗祭のうち、天皇が即位したあと初めて行うそれを、とくに大嘗祭と呼ぶ。・・・大嘗祭では新天皇が麁布(荒妙、麻布で作った服)を着用する場面があり、それはずっと三木家から貢納することになっている。伝承によれば、その沿革は古代にまでさかのぼるとされているが、文献で確認できるのは文保2年(1318)からである。それでも、すでに700年たっている。そうして平成の大嘗祭でも、その慣例は守られたのである。阿波国の草深い山村の一家系が、なぜそのような役目をになうことになったのか(P178)