とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

パウロ

 キリスト教は一説にはパウロ教とも言われる。新約聖書は四福音書と使徒等が書いたいくつもの文書で構成されるが、その中でも多くを占めるのはパウロが書いたとされる書簡である。本書では実際にパウロが書いたのは「テサロニケ人への第一の手紙」を始めとする7つの文書だとするが、それらの執筆時期や執筆場所、時代背景等を解説しつつ、パウロの思想に迫っていく。

 イエスの死後、その意味をどう捉えるか、それまでのユダヤ教のあり方などを踏まえ、キリスト教は大きく二つに分かれる。それが律法遵守を掲げるヘブラニストと律法からの自由を説いたヘレニストである。パウロは回心する以前、狂信的なユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害していたが、回心後はヘレニストとして各地を宣教して回る。そしてパウロが開拓した各地の教団に、その後、ヘブラニストたちが入って人々を混乱させた。そうした中で書き送られたのが、聖書にある書簡の数々である。

 後半はパウロの「十字架の神学」について説明する。その中では筆者は、新共同訳聖書の誤りを指摘し、自ら翻訳した岩波訳聖書では「十字架につけられたままのイエス」という言葉を用いて、「弱さこそ強さ」という「十字架の逆説」を述べていく。またそれは同時に、贖罪論(イエスの犠牲により人類は救われる)の否定でもある。

 筆者は、キリスト教信者にして、神学者であるが、神学科を卒業した学生が多くの教会で牧師などを務めているのだと言う。神学科では当然、神の存在が前提となって研究がされているのだろう。その点で宗教学とは異なる。人はなぜ神を信じるのか。それは救いを求めているからだとは思うが、「信じる者は救われる」というキリスト教を揶揄する言葉こそがまさにパウロの思想ということだ。なぜ人は救われたいのか。その問いの答えはまだ見つからない。

 

パウロ 十字架の使徒 (岩波新書)

パウロ 十字架の使徒 (岩波新書)

 

 

パウロの捉え方は、神は律法を遵守するわざや行ないがまったくない不信心な者をそのままで義とする方であり、そのような神を信じ、そのことを明らかにしたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、人は救われるのだという、いわゆる「信仰義認論」に深く通じるものであった。(P70)

○神がパウロの心の内において啓示したイエス・キリストは、すでに殺されておりながら、今もなお生き続けている、という逆説的な存在であったのである。そのような逆説的な「イエスの生命」が、もろくて弱い「土の器」である私たちキリスト者の身体にも息づいていること、言い換えれば、私たち自身もまたイエスと同様に、十字架につけられたまま殺害されているのだということを、パウロは伝えようとしている。(P121)

パウロの疑問に対して「神」は、「十字架につけられたままのイエス」の「幻」をパウロの内側に現出させると同時に、その「十字架につけられたままのイエス」こそ義なる存在、つまり神によって肯定されている存在なのである、とのインスピレーションをパウロの外側から与えたのではないか。「神の啓示」を受けるとは、このような内側と外側との呼応関係に基づく体験をすることを指すのではないか、と筆者は考える。(P176)

○十字架上のイエスの最後の絶叫は、これから起ころうとしている自らの運命をすべて知り尽くしている者の言葉ではない。・・・イエスは自らの明確な意志と願望とを持った真の「人間」であった。その意志と希望を打ち砕かれ、悲嘆と絶望のなかで虚しく死んでいったのが、イエスという人間である。パウロの「十字架の逆説」は、そのような非業の死を遂げた一個の人間としてのイエスを見よ、その最後の生き様と死に様から、目を逸らしてはならない、というメッセージでもある。そして、神は決して沈黙していたのではなく、むしろ、イエスの「復活」をとおして、悲惨で弱々しい「イエスの十字架」と悲痛な異議申し立てとを義とし肯定したのだ、と伝えているのである。(P180)

パウロが命を賭けて伝えようとしたのは、人間の自己絶対化を厳しく否定し、神の前に謙虚に自らを見つめ直して、人間の「弱さ」に深く思いを向けるように、というメッセージである。ナザレのイエスにおいて自らを顕わした神は、自らの足りなさと弱さを知る者をこそ義として肯定する神であり、われわれの希望は唯一そこに存在する。(P193)