とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

カラスと亀と死刑囚

 「パラドックスから始める哲学」という副題が付いている。哲学に関する本である。タイトルがかわいくて読み始めたが、内容はしっかり哲学していて、どこまで頭に入ったか自信がない。いやほとんど頭に残っていないことに自信がある。何度も睡魔に襲われたが、それはけっして「春の陽気のせい」ではなく、自分の理解力・読解力のせいである。

 確証のパラドックス、空間と運動のパラドックス、確率のパラドックス、推論のパラドックス、戦略のパラドックス、同一性のパラドックス、自己言及のパラドックス、時間のパラドックス、因果のパラドックスと、具体の事例・問題を題材にして、それぞれのパラドックスをどう考えるか、どう考えられてきたか、紹介されている。

 例えば、有名な「アキレスと亀」のパラドックスから「運動」とは何かを考える。モンティホール問題は「確率」の思い込みに気付かせてくれる。「テセウスの船」の問題から時間経過の中での同一性とは何かを考えさせられる。タイムパラドックスではタイムトラベラーと普通の暮らす人々で現実の見え方の違いを想像する。パラドックスを考えることで、人間存在の不思議さ、合理的思考の危うさなどを考える機会となる。

 しかしそれにしても久し振りに難しかった。しばしサッカーでもぼんやり眺めつつ、退職した自分を見つめてみよう。仕事人としての自分と無職となった後では人生は違って見えるだろうか。そこにも何かパラドックスがあるかもしれない。パラドックスの向こう側に人生が透けて見えると面白い。

 

カラスと亀と死刑囚: パラドックスからはじめる哲学

カラスと亀と死刑囚: パラドックスからはじめる哲学

 

 

○「現実」というものについての認識は、「考えない」「知覚しない」「意識しない」を含んだ形で成り立っているのであって、現実それ自体が真実であるわけではないし、現実に対し論理が無力というわけではない。論理とは、現実における認識者の有限性を描き出し、その状況というものに対し何が言えるか、そして、認識者が行為主体として何ができて何ができないかを教えてくれるものなのである。(P35)

○内在主義においては主体自身の合理性のもとで確証されるところの当該信念の正当化が重要なポイントであるが、外在主義においては、「信頼できるところの信念形成プロセス、もしくはその信念形成に必要な主体外在的な(理由を与える)証拠」のもと、どのようにその信念が正当化されているかがポイントとなる。(P88)

○原因と結果との間の因果関係について、実際に生じていない事態というものを分析することでその側面を照らすことができることに違いはない。大事なことは、われわれが重視するところの「因果性」というものは、自明ではないがしかしそれは不明なわけでもないこと、そして実際の検証も必要であるが可能性のもとでの推論も必要であるような不可思議な性質であることを理解することにある。(P172)

パラドックスがわれわれに与えるところのモヤモヤ感には、われわれを判断停止へと追い込むがゆえに忌避されるところの「嫌らしさ」と同時に、われわれがそこから逃れてしまえばもはや感じることのできない「微妙な何か」が含まれているように思われる。(P185)