とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

敗者の想像力

 加藤典洋と言えば「敗戦後論」だろうか。まだ読んでいない。いつか読みたいと思っている。昨年の冬に「村上春樹は、むずかしい」を読んだ。批評の確かさを感じた。それで次は「敗戦後論」と思っていたのだが、いまだ読めていない。その代わりでもないが、5月に刊行された本書を読んだ。面白かった。「敗戦後論」「敗戦入門」では敗戦後の日本人の意識とそれが現在社会に及ぼしているものについて書かれていたはず。そしてその「敗者の想像力」は、小津安二郎が欧米でも受け入れられているように、カズオ・イシグロが英国で受け入れられているように、それは日本人だけのものではなく、欧米人にも共感されていると言う。

 第1部「敗者の日本」では、占領期を描いた文学を論じる。そしてゴジラを論じる。ゴジラは日本人の戦争で散った死者に対するわだかまりを象徴し、不気味なものとして死んでいく。「幕間」として書かれた「シン・ゴジラ論」では、新たなゴジラは敗戦に抗するのではなく、「電通」なるものへの抵抗として描かれていると批評する。

 第2部「敗者の戦後」では、山口昌男多田道太郎吉本隆明鶴見俊輔を取り上げて、敗者の視点、敗者であることを、共感を持って論じる。「ヨブ記」に「神の敗者」を見る読解も興味深い。また第6章では、宮崎駿手塚治虫を並べて見せる。宮崎駿はディズニーを超えることで、世界の共感を得た。そして第7章と「終わりに」は大江健三郎論である。中でも沖縄「集団自決」裁判を詳細に論じ、さらに同時期に執筆された「水死」を論じる。大江健三郎に敗戦・占領を経験した「敗者の想像力」を見る。

 久しぶりに大江論を読んだ。大江健三郎も読まなくなって久しい。だが本書を読んで再び大江健三郎に興味を持った。また機会があったら「水死」を読んでみようかと思う。

 

敗者の想像力 (集英社新書)

敗者の想像力 (集英社新書)

 

 

○敗者の想像力とは、敗者が敗者であり続けているうちに、彼のなかに生まれてくるだろう想像力のことである。・・・敗者の想像力とここで名づけようとしているものは、けっして敗戦国に特有のものではない。それは普遍的な広がりをもつ。そしてその理由も、はっきりとしている。理由は公である。敗れるということが、誰もが経験する、普遍的なできごとだから。そしてそのことへの気づきと、たまたま自分の国が、社会が、敗れるということが、人間の経験のなかでは、往々にしてつながることが、多いのである。(P23)

○今後、戦争はますます勝者のないゲームになっていくだろう。殺す人間は減り、ゼロに近くなり、見えなくなり、そして殺される人間だけが増えていくだろう。そして死んでいく人間はその後に幾多の悲哀と絶望を遺された人間に与える。ある意味では、敗者であるということは、過去に私たちをつなぎとめると同時に、未来へと開く経験なのである。(P27)

○実は、日本はまだ占領されている。独立していないのだ、ともう一人のルーシー先生が、私たちに恐るべき「真実」を告げる、そういう場面を想像してみよう。しかし、現にいま、私たちは、そう言われても、衝撃を受けることができない。/えっ、それで何か困ることがある?/私たちなら、そう言うのではないか。「かくも従順に、抵抗もせずに、不当なことを受けとめる」、あのイシグロの小説の主人公たちのように。(P39)

○戦後の日本人にとって、戦争の死者は、「なつかしい」、「恩義も感じる」と同時に「うしろめたい」、面と向かって会うのが「恐ろしい」、そういう多義的な存在-不気(unheimlich=ウンハイムリッヒ)味な存在-に変わってしまっている。/ゴジラは、当初、原水爆の恐怖の権化としてつくられたのだが、観客の目にさらされると、そのさまざまな矛盾の凝集体として、スクリーン上に焦点を結ぶことになった。だから、最後、第一作でゴジラが芹澤博士とともに断末魔の咆哮をあげ、東京湾に沈むと、それを見る者は、ほっとする。と同時に、その死に、一抹の言いようのない悲哀を感じる。ゴジラは、妙に「後を引く」。そういう不気味な存在として、日本の社会に受けとめられ、受けいれられ、ある意味で、なくてはならないものとなっていったのである。(P92)

○「こわい」ものなら撃退すればよい。しかし「不気味なもの」は撃退できない。これを無化し、退治するには、この「こわい」ものを「かわいい」ものに変える、「かわいく」(cutify)する以外には方法がないのである。/こうして「不気味なもの」を、日本の社会にとって無害な、むしろ「かわいい」存在になるまで、飼い慣らし、馴致することが、その後、日本の文化を駆動する一つの導因となる。その「不気味なもの」から「かわいいもの」に向けての逃走の切実さが、「ハローキティ」をつくり、「ポケモン」をつくり、というように、あれほど多くの「かわいい」アイテムの出現をその後日本文化に促すのである。(P95)

○「正しさ」とは何だろうか。それは、人が生きる場面のなかから、その都度、「これしかない」というようにして摘み取られ、手本なしに生きることを通じて、つくり出されるものなのではないか。強い立場の人びとの「正義」の物語をお手本にするよりも、新たに自分たちの「正しさ」を模索することのうちに、「正しさ」の基礎はあるのではないか。(P184)