とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

路地裏の民主主義

 平川克美がいくつかのメディアで執筆掲載してきたコラムに加筆修正をしたもの。具体にどの記事がどのメディアで何時、といったことは記載されていないから、かなり修正したのだろうか。第1章は民主主義、第2章はメディア論。平川氏らしい、路地裏からの、庶民感覚の、政治論や経済論が聞かれる。

 そして一転、第3章、第4章では、平川氏が生まれ育った蒲田周辺の街歩きの報告、昔の記憶などが綴られる。幼い頃からの記憶や景観によって引き起こされる現在への警鐘と感慨。それもまた心地良い。ただし私は全くその地を知らないので、同感というわけにはいかない。似たような故郷の姿を思い返し、共感するのみである。一度、平川氏が綴る街を歩くのも楽しいだろう。

 そして第5章、終章ではまた経済論などに戻ってくる。

 今、世間では突然の総選挙解散の話で盛り上がっている。大義なき解散。政治とはいったい何だろうかという思いが溢れ出す。政治家が、首相が率先して、この日本の社会を毀損しようとしている。みんなもきっとそれをマネするだろう。どれだけ深くこの国を毀損し、よいところを掘り返し、独り占めにするか。それをできる人間がよりエライという価値観。そして日本の未来はボロボロになり、子供たちには何も残らない。残さない。(自分の子孫にだけは莫大な財産を残すことができるのかもしれないが、それは多分厚みがなく、簡単に侵食される類のものであるに違いない。)

 そんなわけにはいかないじゃないか。平川克美氏は路地裏からそう訴えている。

 

路地裏の民主主義 (角川新書)

路地裏の民主主義 (角川新書)

 

 

○「学びの場」において、ひとは何事かを入力されるが、その入力が期待した出力を得るということはほとんどない。微妙な入力の違いが、とてつもなく大きな出力の差になったり、期待とはまったく正反対の結果を生み出すことが頻繁に起こる。/何故、そうなるのか。/その理路を説明するのは難しいが、人間は「学び」をとおして、どんどん変わってしまうというところが大きいだろう。(P32)

○いまは与党から野党まで、みんな経済成長の必要性を主張していますが、これがいかにおかしいことなのかを、われわれはしっかりと考えなくてはいけない。必要なのは成長ではなく、縮小した経済に合わせた社会をつくることです。(P61)

○高い支持率とスポンサーには勝てない。しかし、もし時の内閣が、「現実に合わせて」憲法の条文解釈を変更することが許されるなら、憲法は最高法規である威信を失うことになる。そのことの重大性をメディアは、本当に理解しているのかという思いがする。/「現実に合わせて法をつくる」のではなく、「法に合わせて現実を修正していく」のが政治家の役目であり、法治主義の基本精神であったはずである。この解釈改憲が及ぼす影響は、安全保障の問題にとどまらないだろう。日本人の、法に対する信頼や、自らの言葉に対する責任というものが、深いところで毀損されていくことになる。(P75)

○他者の目を通して、自分を眺め直してみるためには、主観のレベルから離れて、自分というものを相対化する必要がある。/知性とは、そういうことを謂うのであって、主観のレベルから離れることができない思想は、それがどんなに精緻に組み立てられたものであったとしても、知性的なものだとは言えない。せいぜいが、精巧につくられた教義のようなものであり、それらを、習得すればするほど、ひとは意固地になって自説にしがみつくことになるだろう。(P85)

○株式会社の目的は利益の最大化であり、国民国家の目的も利益を上げ、人々の生活水準を上げることだと言えるかもしれない。しかし、重要なことは、利潤の最大化は株式会社の目的のすべてであるのに対して、国民国家にとっては幾つかある目的のひとつでしかないということである。国家の富もまた、貨幣に還元できるものだけではなく、自然、環境、国民の教育、健康な生活、民主的な政治、勤労精神などなどの集積の謂いであり、その意味では彼ら(下村修と宇沢弘文)こそ重商主義を批判したアダム・スミスの経済学の本来的な継承者なのだ。(P194)