とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

「移行期的混乱」以降

 「移行期的混乱」で「問題なのは成長戦略がないことではない。成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだ」と指摘した筆者。その続編にあたる本書では、その原因である人口減少の、さらに先の原因としての、家族構造の変化について説明し、社会の変化は構造的なものなのだから、変化した社会に合った経済や家族に代わる中間共同体の必要を訴える。

 残念ながら、その明確な社会像は描かれない。だが、わからないまでも、問題の本質は経済成長を求めるのではなく、国民・人類の安寧や幸福を求めることだと目標を変えることが重要だ。「社会の変化に適した経済政策」、「家族に代わりうる中間共同体」、「縮小均衡した日本のイメージ」、「右肩上りが望めない時代に、いかに豊かで安定した生活を実現するか」、そして「競争原理から次の原理への移行」。

 中でも、「競争原理は拡大再生産局面においてのみ有効であり、縮小均衡下では成り立たない」という指摘は重要だ。今、社会のすべての局面において、退却戦が求められている。それを的確に指揮できるリーダーはいないのかもしれない。私たちは個人個人の局面では競争原理の中で働きつつ、社会全体としては縮小金社会に向かわなければならない。かなり困難な行動と思考を求められているのだ。

 

 

〇経済とは、頭の中にある理論の実行ではなく、国民ひとりひとりの足下の生活の観察の中から出てきたものだけが、本物になりうるのだということである。経済政策が先にあるのではなく、社会変化が先にあったのだ。経済政策が人を変化に向けて促すのではなく、ひとびとの生活の変化が、それに適した経済政策を促すのである。・・・ひとびとは、このような社会変化の中で、経済合理的に行動する。社会の変化に合わせて経済のあり方を変えるのである。(P069)

〇ひとは余儀なく晩婚化を選択したのではなく、むしろ自ら進んで晩婚化を選択したということではないのか。そうだとすれば、長寿社会が実現した現在、晩婚化という現象は「問題」ではなく、むしろ自然な状態であり、晩婚化を受け入れて、それでも持続可能な社会システムを作っていく必要があるのではないだろうか。/奇矯な言い方になるかもしれないが、晩婚化、未婚化が進んだとしても、少子化に歯止めがかかる社会というものを構想することは不可能なのだろうか。・・・言い換えるならば、わたしたちは、家族に代わりうる中間共同体を作り出すことができるのかということである。(P137)

〇白川もまた、現在のデフレ的な状況を、経済政策の失敗によるものではなく、人口減少が牽引する需要不足だとみえおり、やがては縮小均衡へ向かうはずだと信じている。いや、日本経済が目指す方向は、経済成長ではなく、縮小均衡なのだと言っているように思えるのである。・・・わたしは、白川の現場感覚に同意する。現在のデフレ状況は、縮小均衡へ向かう前触れであり、わたしたちは縮小均衡した日本というものを、イメージすることから始めなくてはならない。(P156)

〇EUは、多国籍企業と手を結んだ国民国家の側から超国家的な市場の再定義を行うという試みであり、・・・そのような観点から、イギリスのEU離脱を眺めてみるならば、グローバリズム勢力による市場の再定義に対する、国民国家の側の市場の再々定義の運動のように見える。・・・国民国家の側の再々定義とは何だろう。わたしは・・・右肩上がりが望めなくなった時代に、どのようにしたら豊かで安定した生活が営んでいけるのかを構想することではないかと思う。(P165)

〇わたしは、「競争社会」を否定しているのではない。重要なことは、競争社会というものが成立するのは、社会が拡大再生産を続けている限りにおいてだということである。人口が減少し、総需要が減退し、総生産が下降するような縮小均衡の時代には、もはや競争原理そのものが成り立たなくなっている。なぜなら、縮小均衡下における競争の敗者は、生存の危機に陥ってしまうだろうし、格差は社会の安定を維持できないほどに悲惨なものになるからだ。・・・わたしたちがいま見ている光景は、競争原理から次の原理へと移行するその混乱そのものなのである。(P176)