とんま天狗は雲の上

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コンプレックス文化論

 武田砂鉄の評論は面白い。本書ではコンプレックスを題材に、問題提起し(その1)、インタビューし(その2)、まとめる(その3)。(その1)と(その3)で大きく議論が変わることはないが、実際にそのコンプレックスに悩んできた(いる)人にインタビューをしてみると、彼らの抱えてきたものが具体的な形となって見えてくる。ただし、それは一例に過ぎないし、多くはそのコンプレックスを克服し、または生かし、バネとして、今や確固たる地位や足取りを示してきた人々だ。未だにコンプレックスの前にグズグズしている姿は見られない。それを表現しても、既にコントロールされている。人は長くコンプレックスと付き合い続けているうちに、それを飼い慣らす術を覚えていくのだろう。噛みしめれば噛みしめるほど、味が出て、豊かになっていく。たぶんコンプレックスはまず認識することが重要で、それと毎日付き合っていくことで人を成長させてくれる。コンプレックスがあるから生きていけるし、ブログを書く際のネタにもなる。ブログだけじゃなく、全ての仕事にとっても、ネタだ。

 取り上げられるコンプレックスは10。天然パーマ、下戸、解雇、一重、親が金持ち、セーラー服、遅刻、実家暮らし、背が低い、ハゲ。でも中にはどうしてこれがコンプレックスなのかと思うものもある。例えば「親が金持ち」。しかもこの章でインタビューするのはクイズ女王の篠原かをり。全然コンプレックスに思っていない。あっけらかんと金持ちを受け入れ、放言する。これはインタビューの相手を間違えている。それなら、宮沢賢治にでもインタビューしてほしい。

 「セーラー服」もわかりにくい。体育会系でも、ヤンキーでもなかった、文科部・帰宅部の青年にとって、性的成長過程における女生徒に対する屈折した思いをテーマにしているのだが、ある意味、誰もが通る道ではないかな。セーラー服って性的嗜好ではあっても、コンプレックスというのはわかりにくい。女性に対して積極的にアプローチできない「気弱な性格」というのであれば、きっと多くの人が抱えたコンプレックスではなかったか。

 個人的にも多くのコンプレックスを抱いている。取り上げられた中でも、いくつか該当するものがある。それに加え、取り上げてほしかったなと思うものが二つ(本当はもっとあるけれど、テーマとなり得るものとして)。「高学歴」と「忘れ物・落とし物」だ。高学歴は、自分が努力した部分もあるけれど、多くは生まれながらの能力による。「親が金持ち」に近い。しかし、その学歴に見合った地位にいないと自覚する時、コンプレックスとなって返ってくる。「なぜこんな大学へ行ってしまったんだ」と後悔する。そんな人は多いのではないだろうか。少なくとも「親が金持ち」な人よりは一般的だ。

 また、「忘れ物・落とし物」については「遅刻」コンプレックスに近いと思うが、遅刻はある程度、本人の意思が介在するのに対して、落とし物・忘れ物は意思や記憶が喪失したところで起きてくる。だからこそ強烈なコンプレックスとして返ってくる。私がこのコンプレックスといかにつきあっているかはこれまでもこのブログに書いてきたが、他の人の生き方、対処の仕方を聞いてみたい。mixiの忘れ物コミュニティに参加したこともあるけれど、結局どこかで忘れ物自慢になってしまう。いつか武田氏にきちんと取り上げてほしい。

 とは言っても、武田砂鉄も別にコンプレックス評論家ではない。単にネタの一つとしてコンプレックスを取り上げただけだ。だから今後を期待するのは間違っているかもしれない。今回、図書館で本書を予約したが、予約数が特に多かったのはそれだけ多くの人がコンプレックスに悩んでいるからだろう。そういう意味では武田氏はいいネタを掴んだのかもしれない。「いや、それほどは売れてないよ」と言うのだろうか。まあ、僕も図書館で借りたしね。

 

コンプレックス文化論

コンプレックス文化論

 

 

○下戸は、上戸に比べて、悩む時間が多い。だって記憶をなくしている時間がないからだ。忘れてしまっていいこともすべて覚えているし、育てる必要のない悩みにも水をやってしまう。不器用だが誠実だ。(P52)

○一重の歴史や現在にはとっても切なく残酷なものが多いけれど、一重の人たちが単衣を嫌がることで、逆に「一重でいること」が自分の武器の強度として蓄積されていく側面があるのかもしれない。それはコンプレックスのきわめてベーシックな育ち方である。(P108)

○「君が代」のメロディと佇まいは美しい。あれは、とても「一重」的な曲だ。・・・一方、アメリカ国家を頭によぎらせてほしい。・・・あれが凹凸の国の音階だ。二重の音階だ。彫りの深い音階だ。一重=凹凸がない、という状態を、ジャパニーズエッセンスが残っている貴重な状態と考えてみたらどうか。・・・一重はオリエンタルである、トラディショナルである、と打ち出してみたらどうか。(P113)

○清く正しいセーラー服は清く正しい野球部員のために用意されてきたし、逆に、正しくないセーラー服はヤンキーのために用意されてきた。そのどちらの供給にもありつけなかった人たちは、セーラー服の存在を引きずる。噛み切れなかった具材として、いつまでも腹の中で消化できずにいる。・・・「運動」より「文化」や「帰宅」を嗜好した人たちにとってセーラー服って性癖ではなく、壁なのだ。(P179)

○実家にいると毎日「ご飯よ~」と階下の親から呼び止められる。全て準備してもらっている手前、「ちょっと待って、ラップかけといて」とはなかなか言えない。自分の創作意欲よりも、みそ汁が冷めることを優先しなければいけない。その上で己の創作と戦うのだ。(P221)