とんま天狗は雲の上

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罰の意味と効果

 先週日曜日の朝、「ボクらの時代」(フジTV)で、久米宏が「マスコミが流すニュースはどこまで行っても一面的だ。例えば殺人事件でも、加害者の犯行に及ぶまでの気持ちや背景が取材され、伝えられることはない」といった趣旨の発言をしていた。もちろん、社会を揺るがすような衝撃的な事件の後で、社会学者などがさまざまにコメントを出したり、本を書いたりすることはあるけれど、加害者本人の気持ちなどが直接に伝えられることはまずない。だからこそ、神戸連続児童殺傷事件の少年Aの「絶歌」や宮崎勤の「夢のなか」が話題になったりするのだが、これらも事件後、数十年以上が経過してから綴られており、本当のところはわからない。

 もちろん加害者本人の資質や性格などによる部分も大きいだろうが、家庭環境や社会情勢が加害者の行動を後押ししている可能性も否めない。そして彼ら犯罪者は、逮捕され、裁判で刑を宣告され、罰を受けるわけだが、罰には実際のところどんな意味があるのだろう。罰にはどういう効果が期待されているのだろうか。

 例えば旧約聖書ハンムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」と書かれており、「同害報復」という考えが示されているが、「『目には目を、歯には歯を』の本当の意味:不二草紙 本日のおススメ」では「過度な報復を防ぐという趣旨である」と言い、ブッダやイエスによる「我慢の勧め」(と単純に言っていいかどうかはよくわからないが)等についても書かれている。イエスが言うように、どんなに傷つけられても赦し、さらに頬を差し出すようなことは、なかなかできないけれど、少なくとも日本の刑法は、「加害者には罰を与えるから、それで我慢せよ」と言っているように聞こえる。

 では「罰」は被害者の恨みを晴らすためのものなのだろうか。確かにそういう意味もあるだろうが、一義的には次なる犯罪への「抑止効果」ということではないか。でも本当に効果はあるのか。犯罪者は「これをやると、死刑になる」とか「罰金刑だ」とか思うだろうか。昨今の少年刑の厳罰化は、「少年だから、殺人をしても死刑になることはない」という甘い考えを否定するためだと思うが、実はあまり効果はないのではないか。

 自分が被害者本人やその親族になったと仮定しても、加害者が法で定められた刑に服したからといって、それで恨みは消えるとは思えない。個人的に抱いた恨みは、個人的に晴らされねばならない。しかし報復をするわけにはいかない。結局、我慢し、諦めるしかない。ただ一つ願うのは、「もう二度と同様の犯罪が起こらないようにしてほしい」という思いだ。もしその犯罪が加害者の性格や資質によるものであれば、再び犯罪行動を起こすことがないよう、更生が確認されるまで、社会から隔離するか、一定の監視下に置く必要がある。また、社会に加害者の犯罪を誘発する背景や遠因があった場合は、社会状況の改善を促す。例えば、事件後に広く社会的に議論や研究が行われ、必要に応じて法律改正等が行われるのは、社会そのものが「罰」を受けていると考えることもできる。

 やたらと厳罰化すればいいというものではないし、罰の意味と効果をしっかりと見定めて、刑の執行を行う必要がある。と、これを書きながらふと、「北朝鮮への圧力」の意味と効果について頭をよぎった。北朝鮮に対してはどういう罰を与えるのが効果的なんだろうか。そもそも「罰を与える」という発想自体が上から目線なので、「人が他人を裁くことはできるのだろうか」という疑問も生まれてくる。罰とはいったい何だろうか。