とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

世界スタジアム物語☆

 新国立競技場の建設を巡っては、社会的に大きな問題となり、迷走した。ちょうど新国立競技場の国際コンペが行われた2012年から、騒動の末、再コンペで隈研吾らの案が採用された2015年までの間、サッカーダイジェストで連載されていた「スタジアムの記憶」を編集したもの。「はしがき」で指摘しているように、国立競技場を管理運営する日本スポーツ振興センター(JSC)や、JSCが設置した有識者会議のメンバーには結局、スタジアムについての基本的な知識や理解がなかった。後藤健生がメンバーに入っていたら、あんなことにはならなかったのではないか。

 本書では世界のスタジアムの歴史や現状、最新の動きなどが網羅されている。第1章の冒頭に係れた「古代オリンピックは紀元前776年から期限393年まで293回にもわたって開催された」という事実すら知らなかったが、その時代に使われていた古代のスタジアム「パナシナイコス・スタディオン」が1896年の第1回近代オリンピックで使われている。しかも2004年アテネ大会でも再び。そんなびっくり話から、19世紀末、近代的スタジアム黎明期におけるスタジアム建築家であるアーチボルト・リーチの建てた数多くのスタジアム。第一次世界大戦後の1920年代に世界各地で建設された大規模スタジアムの数々。そして戦後、スポーツがサッカーを中心にますます発展する中で、スタジアムの立地や求められる機能、デザインも大きく変化をしてきた。キャンチレバー式や吊り屋根、開閉式屋根、札幌ドームのような可動式ピッチなど。ちなみに、世界最初の可動式ピッチは札幌ドームではなく、オランダのヘルレドームだそうだ。こうした専門技術的な内容は建築の専門家にも大いに参考になる。

 第5章は「独裁者とスタジアム」、第6章は「戦争とスタジアム」。そして第8章では「スタジアムの悲劇とその近代化」として、スタジアムで発生した重大事故についても綴られる。また第7章「スタジアムの記憶」では、建替えられ、移転した後のスタジアムやその跡地がどのように利用され、記憶として残されているかを紹介する。アーセナルハイバリー・スタジアムは高級集合住宅となった今も、1932年完成時のファサードが残されているのだ。

 世界中の多くのスタジアムについて、その成り立ち、計画と整備の推移、設計内容、利用状況、さらには重要なゲームの記録・記憶に至るまで、実に多くのことが語られ尽くされている。巻末の「スタジアム索引」には、世界各国全部で118のスタジアムのデータがまとめられているが、後藤氏はこれらをすべて見て回ったんだろうか。たぶんそうだろう。そしてそれぞれのスタジアムで観戦したゲームの記憶も鮮明に残っていることだろう。実に羨ましい。そしてそのサッカー愛に憧憬する。再述になるが、やはりこういう人を加えて、新国立競技場の検討をしてほしかった。でもたぶん後藤氏が参加したら、改築ではなく改修を主張したことだろう。でもだからこそ、後藤氏に参加してほしかったのだが。

 

 

〇日本では、2020年のオリンピックの東京開催が決まってから、新国立競技場建設を巡って大混乱が続いた。問題点は多岐にわたるが、要するにスタジアムというものがどういう社会的意味を持つ施設なのか。・・・あるいは、スポーツ先進国では最近どのようなスタジアムが建設されているのかといった基本的な知識や理解がなく、そのため新しく建設するスタジアムをどのようなコンセプトのものにすべきなのかを決められなかったことに問題の本質はある。(ⅱ-8)

〇クラブの財政に余裕ができると、そのたびに部分的にスタンドを整備・修復することによってスタジアムは順次拡張されてきたのだ。そのため、全体としては統一されたデザインであっても、子細に見ると屋根の材質や構造が建設された時代によってまちまちになっていたのだ。・・・こうして1910年から約1世紀の歳月をかけて、オールド・トラフォードは現在のような大規模なスタジアムに発展してきたのだ。(P18)

〇クイーンズパークFCは1867年創立というスコットランド最古のクラブであり、またパス・サッカーを生み出したクラブとしても知られている。・・・クイーンズパークは、その後もプロ化を認めず、アマチュアの地位を維持したため今は3部リーグでプレーしているが、ハンプデン・パークの所有者として世界中にその名が知られている。/事実上のナショナル・スタジアムとして使用されてきたハンプデン・パーク。1937年のイングランド戦には14万9415人が入場しているが、これは現在でもすべての競技を通じてのイギリス国内での最多観客動員記録として残っている。(P97)

〇東ヨーロッパ諸国を支配下に置くと同時に・・・ソ連の国境が西に移動し、かつてポーランド領だった土地がソ連の領土となった。・・・その代わりにポーランドとドイツの国境が西に移動し、旧ドイツ領だった地域が新たにポーランド領に編入された。・・・ヴロツワフという都市は、そんな旧ドイツ領の中心都市だった。・・・そして、この街にある、「スタディオン・オリンピスキ」と呼ばれている古いスタジアムは、国境の変更によって二つの国の代表チームがホームとして使用した世界で唯一のスタジアムとなった。(P176)

〇2006年に閉鎖された旧スタジアムの跡地は再開発され、現在は「ハイバリースクウェア」という高級集合住宅になっている。ピッチ跡が中庭となり、中庭を囲んでスタンドの構造をそのまま利用した集合住宅が建っており、当時のスタジアムの様子が容易に想像できる。・・・「記憶」が大事にされているのが嬉しい……。この地で紡がれたイングランド・サッカー史上のいくつもの「記憶」である。(P193)