とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

君たちはどう生きるか☆

 今、話題の本を読んでみた。マンガ版でも、新装版でもなく、岩波文庫版。戦後に一部縮小し、修正した版もあるようだが、これは1937年に発行された初版版。早慶戦の場面や高輪の豪邸など、現在に照らすと若干、時代を感じさせる部分も、ほとんどは現在においても全く違和感なく読める。逆に、高層のデパートから銀座を見下ろす冒頭のシーンなど、これが戦前の作品だということが信じられないくらいだ。

 そして内容も全く現在においても身につまされることばかり。マスコミでは「いじめの場面もあって」等と書かれているものもあったが、それは本書の前半部分。やはり本書の最大の山場は、上級生のリンチに対して、身体を動かすことができなかった主人公の弱さと悔恨の場面だろう。しかしコペル君には、彼を暖かく見守り、成長を促す、母親や叔父さんがいる。そしてよき友がいる。こうした道徳・倫理だけでなく、本書では「生産関係」と呼ぶ経済への視点や、ニュートンのリンゴの落下から重力と遠心力の釣り合いを説明する科学への視座、「貧しき友」で描かれる貧富の差と庶民の暮らしなど、社会全般にわたって目を開かせてくれる。

 青少年期に本書に巡り合えるということはすばらしいことだろう。たとえマンガ版であったとしても。しかし、こうして還暦を超えてなお、本書に出会えたことはうれしい。書名は知っていたのだから、もっと早く読んでいれば、私の人生も少しは変わっただろうか。もう少し弱さを克服できていただろうか。

 「過ちは誰にだってある。・・・しかし・・・この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出していこう。・・・僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。/だから、誤りから立ち直ることも出来るのだ。」(P256)という一節は、筆者のやさしさとともに、大きな勇気を与えてくれる。

 

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

【文庫 】君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

○自分たちの地球が雨中の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしょう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。・・・だから、今日、君がしみじみと、自分を広い広い世の中の一分子だと感じたということは、ほんとうに大きなことだと、僕は思う。(P26)

○無論、誰だって食べたり着たりせずに生きちゃあいられないんだから、まるきり消費しないで生産ばかりしている人はない。また、元来ものを生産するというのは、結局それを有用に消費するためなんだから、消費するのが悪いなどということはない。しかし、自分が消費するものよりも、もっと多くの者を生産して世の中に送り出している人と、何も生産しないで、ただ消費ばかりしている人間と、どっちふぁ立派な人間か、どっちが大切な人間か・・・それは問題にならないじゃあないか。(P139)

○君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気迫を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。(P195)

○コペル君は、人間の行いというものが、一度してしまったら二度と取り消せないものだということを、つくづくと知って、ほんとうに恐ろしいことだと思いました。自分のしたことは、誰が知らなくとも、自分が知っていますし、たとえ自分が忘れてしまったとしても、してしまった以上、もう決して動かすことは出来ないのです。自分がそういう人間だったことを、あとになってから打ち消す方法は、絶対にないのです(P225)

○僕、ほんとうにいい人間にならなければいけないと思いはじめました。叔父さんのいうように、僕は、消費専門家で、なに一つ生産していません。浦川君なんかとちがって、僕には、いま何か生産しようと思っても、なんにも出来ません。しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を一人この世に送り出すことは、僕にでも出来るのです。そして、そのつもりにさえなれば、これ以上のものを生みだせる人間にだって、なれると思います。(P297)