とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

無冠、されど至強

 都立朝鮮人高校で全国高校サッカー選手権に出場し、ベスト4になった1955年1月。チームには金明植がいた。しかしその年の4月。朝鮮人高校は都立でなくなり、高体連の大会への出場ができなくなる。その後、金明植は中央大学に進学し、さらに在日朝鮮蹴球団に加入すると、蹴球団は全国を行脚して無敵の強さを誇った。1971年、東京朝高サッカー部監督に就任すると、その強さは高校レベルを凌駕。全国の高校選手権出場チームが朝高詣でをした。そんな伝説の在日サッカー選手・金明植の半生を描いた伝記だ。

 在日サッカーチーム関係の本としては、筆者自身が書いた「橋を架ける者たち」「蹴る群れ」、また河崎三行の「チュックダン!」が有名だ。そしてこれらの本の中にも金明植は欠かせない選手として描かれている。その明植の教え子である高英禧の要望を受けて書籍化したとエピローグに綴られている。しかしその直後の書かれている内容が衝撃的だ。上野千鶴子東京新聞に書いた「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」という文章に強く反発し、自ら筆を執る決断をしたという。日本における多文化共生の実例として。

 未だにヘイトスピーチが横行し、朝鮮人差別が終わらない日本において、少なくとも一部のサッカーの世界においては、在日選手と友好的かつ競争的に交流してきた歴史があった。そしてそこに金明植の果たした役割は大きい。今まさにオリンピックが開催されている。北朝鮮の参加により、スポーツの政治利用といった批判もあるようだが、それよりも多文化共生とスポーツのあり方について考えてみる方がより建設的ではないか。日本に朝鮮学校がある意味を考えてみたい。

 

無冠、されど至強 東京朝鮮高校サッカー部と金明植の時代

無冠、されど至強 東京朝鮮高校サッカー部と金明植の時代

 

 

○全国選手権での優勝6回・・・その帝京高校が全盛期ですら、歯がたたなかった高校サッカー部があったことは、一部のコアなサッカーマニアを除いては知られていない。/東京挑戦高級学校チュックブ(サッカー部)である。/偶然か、必然、この2つの高校は、東京・十条という・・・町で軒を並べている。直線距離にして500メートル・・・ダッシュをすれば3~4分ほどの距離しかない。(P2)

○初めての公式の全国大会でベスト4の結果を残した。/選手権では嬉しい出会いもあった。試合では日本の通名でプレーしていたが、実は在日コリアンという選手が多くいたのである。その代表が2回戦で対戦した仙台育英高の大原兄弟だった。・・・東京朝高の宿舎を訪ねて来た2人を明植も東奎も温かく迎え、サッカーはもちろんお互いの学校のことなどをしばしば話し込んだ。(P56)

○日本代表が所属するトップチームですら凌駕した蹴球団である。・・・以降も常勝チームとして日本全国を転戦し、苦しい生活に悩む各地の同胞を励ます大きな役割を果たしていった。・・・公式戦には出場できなかったが、その強さは世代交代を経ながらも1980年代に至るまで日本のチームを相手に9割6分の勝率を誇り、幻の日本最強チームと言われた。(P109)

○開幕当初のJリーグがスーパーな外国人選手の加入によって日本人選手に大きな刺激とモチベーションを与える場になっていたように、希鏡や英成が日本リーグでプレーしていれば、間違いなくレベルの向上につながったはずである。たかが、国籍、民族というもので分断することでいかに社会や文化が停滞するか。また夢の存在がどれだけ人間を大きく成長させるか。Jリーガーとなった安英学座右の銘が「夢は叶う」であることが象徴している。(P154)

○2011年アジアカップの決勝でゴールを決め、今では浦和レッズのために献身的に走り回る忠成のルーツが鉄泰なら、その元に明植がいた。/明植の反省は「在日同胞のため」であったが、それが日本のサッカーのためにも機能していたことは紛れも無い事実である。すべてのものごとはつながっている。(P242)