とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

次元を変えて客観的に自分を見る。

 先日、後輩のYさんに会った折に、「一昨年の、仕事ですごく窮地に追い込まれた時のことを、いい経験ができたって言っていましたが、本当ですか?」と尋ねられた。もう2年以上前のことで、そのことは現在の仕事や生活に何の影響も残っていない完全に過去のことなので、今時点では「当時の状況を振り返ってどう思うか」ということだけど、「一生懸命対応し、嫌なこともあったけど、振り返れば、これまでの人生経験の中でも特筆的な経験だった」としか言えない。

 「その当時、どう思っていたか」ということについては、もちろん局面、局面で違う感情を抱き、違う対応をしたけれど、その時は一生懸命やっていた。最初に一人での対応を迫られた時は、さすがにどうしようかと考えたけど、真正面で受けずに、逆にこちらの思いや感情を暴露することで場の雰囲気を変えることを思い立ち、これはうまく成功した。もっとも作戦はよかったが、はまりすぎて、感情が迸ってしまった点はけっこう後悔したが。その後は、やり過ごす、逃げる、という選択を考えつつ、落ち着いて対応しようと考えた。相手の誘導に乗って失敗しかけた時は、逆襲をして難を逃れた。全体的にどこまで成功したかは疑問だが、何とかそれで危機は脱した。そして途中からは体制も整えられたので、それ以降は「新しい体制の中で自分はどう振る舞うべきか」という観点で自分の言動を考えていた。(たぶん何を言っているかわからないかとは思いますが、わかる人にだけわかればいいんです。)

 実はこの事件の前に、上司に呼び出され、こっぴどく叱られたことがあった。こちらの方が記憶に強く残っている。この時は、10分近く罵倒を浴びたが、途中から「いったいこの罵倒はいつまで続くんだ?」と頭を下げつつ、客観的にこの状況を捉える、別の自分がいた。それで罵倒も終わり、解放された後には、同席していた人に「何が言いたかったんでしょうね」と聞くゆとりもあった。

 内田樹の本を読むと、時々「次元を変える」「立ち位置を変える」といった趣旨のことが書かれていることがある。相手と同じ次元で考えるのではなく、もう一つ高い次元、メタ・メッセージとか、メタ・コミュニケーションとか、メタ知識とかいった言葉がそれだが、一次元高い立ち位置、高い視点から、自分の言動や相手の様子を観察すると、違う様相が見えてくる、といった意味だ。例えば、「街場の中国論」で、中国なんて行ったこともない自分が中国の実相を、あたかも見てきたかのように言えるのは、一つ高い視点から中国に係るさまざまな出来事を観察し考えたからだ、といった感じ。

 上司に罵倒された時は、あまりに同じことが続くので、そんなことを考える余裕が生まれたが、実際に窮地に追い込まれた中では、メタ視点から自分を観察するなんてことはなかなかできない。でも、あとから振り返ってみるのは有益かもしれない。それもただ振り返るのではなく、別の立場だったらどう見えるだろうか、同じ状況は他にないだろうかと考えながら振り返る。私の場合、ブログがそれかもしれない。後からブログを書いていると、「あれはこういうことだったのか」と思い付くことがある。FacebookTwitterにはない、ブログの効果ってそれだね。なかなか忙しいとそういうことを考えたり、作業する時間も取れないけど、昔から言われる「日記の効用」も同じことだと思う。

 次元を変えて客観的に自分を見る。大事だと思います。でもやはり性格的な制約は大きいのかな。Yさん、一度考えてみてください。

PS.

 もちろんもう二度と経験したくないこともたくさんあります。N氏への対応とか。基本、一対一の対応は嫌だったな。でも多くの場合、組織的に対応するので、みんなが動かねばと思うような雰囲気をつくることが重要かもしれない。その点では、頼りない上司だからこそ、みんな自分自身を守るためにも、一生懸命働く。それが弱っちい上司にとってもプラスになる、ということもあるように思います。