とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

応仁の乱

 一昨年、ベストセラーとなった「応仁の乱」をようやく読んだ。「こんな専門書がどうしてこれほどのベストセラーになったのか」と言われ、どんな難しい内容かと心配したし、それがこれまで手が出なかった理由でもあるが、読んでみると、ベストセラーになるだけの面白さがある。内容もけっして難しくはない。ただ登場人物が多すぎて、結局、誰と誰の遺恨がどうなって、どう抗争に発展し、拮抗・膠着して、何が契機で動いたのか。最終的にどう戦後処理がされ、それが次の時代へどう影響していったか、といったことを読了後に明確に説明できるかと言えば、それは無理。そのためには「この本を読んでください」ともう一度、本書を差し出すしかない。

 だがとにかく、多くの凡人が目先の遺恨や状況を中で、少しでもいい方向へ進めようと思って行動したことが却って混乱を引き起こし、それを収める人もなく、だらだらと続いた、ということはわかる。この時代に英雄はいない。我々と同じ凡人ばかりである。だからこそこんなことが起きた。この時代、戦争を起こすことが絶対悪ではなかった。やられたらやり返すことが求められていた。だからこそ、人々は戦闘という選択肢も入れて、合理的な行動をした。今でこそ、たとえどんな理由があっても襲撃や殺人は罪になるが、当時の武士が守るべき倫理感は現代とちがう。

 しかし、応仁の乱が次の時代、戦国大名の登場や百姓・庶民の社会意識へ変化をもたらしたことは間違いない。また、本書の、特に冒頭部分で、マルクス主義歴史学への批判が述べられているが、必ずしもそれだけでなく、人間社会はさまざまな要因が複雑に絡み合い、徐々に、しかし着実に変化をしていく。そしてそれは現代においても同様だろう。あと100年、いや600年後に現代を見た時に、我々はなぜこんな歴史を作ってきてしまったと説明されるのだろうか。いや、いろいろとやむに已まれぬ理由があったんですよ。安倍さんにしろ、佐川さんにしろ。きっと足利義政にしろ、山名宗全畠山義就らにせよ、同じことを言うだろう。そのことを教えてくれたことが、本書がベストセラーになった要因だろう。

 

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 

 

○合戦に巻き込まれることを恐れた足利義政は、山名・細川両名に対し両畠山への軍事介入を禁じ、義就と政長に一対一の対決をさせようとした。勝った方を支持するという義政の態度は無定見の極みであるが、これまで・・・も、義政は基本的に優勢な側の見方であった。おかしな言い方だが、情勢次第で方針を転換するという点では一貫しているのである。(P86)

○両人は開戦の責任を取る形で隠居した。これによって、山名と細川の間のわだかまりは解消されたと言える。だが両軍の首脳が表舞台を去ったことで、諸将を束ねる存在が失われた。宗全と勝元が真になすべきだったのは、諸将を説得して正式な講和交渉を始めることだったが、彼らはおのおのの政権を投げ出す形で辞任してしまった。諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はだらだらと続いたのである。(P187)

○局面を打開したのは、細川政元ではなく、南山城の国人(地元武士)たちだった。12月、彼らは「国一揆」を結成し、両畠山軍に撤退要求を突きつけた。要求を受け入れない側を攻撃すると国一揆が圧力をかけたため、両軍はやむなく撤兵に応じた。有名な「山城国一揆」である。・・・また義就軍の南山城撤収が契機となり、同年3月には足利義弘・義尚の両人が畠山義就の赦免を決定した。応仁の乱勃発からおよそ20年、義就はついに罪を許されたのであった。ここに応仁の乱の戦後処理は完了した。(P223)

○細川・山名という二者間の利害対立だけが問題ならば、当事者同士の交渉で妥協可能だった。・・・けれども、勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標は急増し、参戦大名が抱える全ての問題を解決することは極めて困難になった。・・・両軍の対立軸が不明確で、両盟主の指導力が限定的だったからこそ、将軍足利義弘の終戦工作は失敗を重ねたのである。(P257)

戦国大名は恒常的な戦乱にそなえるため、郷村に対して城郭の築城・修築のための普請役・・・百姓を徴兵することもあった。このような総動員体制を敷く以上、戦国大名は郷村の存立を維持するため民政に力を入れざるを得ない。・・・郷村・百姓と直接向き合った点に・・・戦国大名の最大の特徴がある。そして、そのような社会動向の出発点が、応仁の乱だったのである。(P279)