とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

ないものがある世界

 今福龍太と言えば「フットボールの新世紀」だが、本来は文化人類学者。中南米や群島諸国といったボーダーでディアスポラな民衆社会をベースに現代社会批評をしてきた人、というイメージでいたが、その今福龍太が小説を書いた、というので少し驚いて、本書を手に取った。

 奇数章と偶数章で異なる物語が並行して進行していく。現代と思しき都市の中で、ほとんどエッセイのような書きぶりで進む奇数章の物語は、都市の北のはずれで廃墟となった港に行き着き、旅立つ。着いたのは始原の世界。ノアという名の少年が浜に打ち上げられたクジラの骨の中から、ウルという名の少女の声や蛇の使いのアトルに導かれ、旅立った先に辿り着いたのもまた、始原の島。そこには見慣れぬ書字機械が置かれていた。

 そこは「ないもの」がある世界。現代社会が失ったものが「ある」世界。「書く」とは「欠く」だったのでは。欠く=なきものにする、ことで現れる本当の「世界」。そんな現代社会に対する批判が、ふたつの同時進行する物語の中で表現されている。今福龍太らしい、難解だが、愛に満ちた、想像に富んだ表現に、心が浮遊する。時に現代人は、始原の世界にさまようことも必要だ。

 

ないものがある世界 (パルティータ 5)

ないものがある世界 (パルティータ 5)

 

 

○時はあらかじめ流れていて、その上をわたしたちが追いかけるように歩いているのだろうか?・・・直線軸の上の時間をただ忙しく前進することだけが目的となったとき、「待つ」ことができなくなった。・・・だが時はそもそも無限定なひろがりだったのではないか。そのなかで生きていれば、待つ機会はいくらでもあったはずだった。・・・待つことこそ生きることの本質だとさえ言えるほどに。すでに所有したものにではなく、これから到来するであろうものにこそ、希望があった。(P39)

○書くことは、文字を次々と書き加えてゆくことである前に、何かを「欠き」、何かを「掻き」とってゆくこととして始まったにちがいない・・・そうして削り、掻いたあとにあらわれる模様が、人間に・・・意味を生み出していったのだ。・・・文字とは、ある意味で欠損の記憶なのである。書くとは、まさに欠くことだった。・・・欠損への記憶を失った、書くことの無自覚で暴力的な氾濫のなかで、ことばは道を見失いかけている。掻き消された声のなかにこそ、真実の一滴が宿っていたことを、顧みるようなことばはもうなくなってしまったのだろうか。(P81)

○表層の神話によっておおいつくされた現代のわたしたちの本当の喪失は、古いものを生活スタイルの合理化によって失ったことではなく、物自体の背後に、モノのかたちを超えて存在するなにものかを想像する感覚を失ったことにある。朝の背後にある夜を、闇の背後にある光を、沈黙の陰で響く叫びを、そして生のなかで熟していく死を。それらを想像することを。(P125)

○港はある種の人間精神を凝縮させた場である。それは海へと自らを拓く勇気を象徴する。・・・海という母胎がわたしたちをとりまいているという事実を、港は単刀直入に受け止め、人間をその母胎へと橋渡しする。海への上陸は母胎からの離別であり、海への出航は母胎への帰還であるという深い真実を、わたしたちに告げる。(P201)

○小さな恩寵を日々受けとりつつも・・・あたらしく効率的な何かによって上書きされるようにして失われてゆく日常は、もはや押しとどめようがなかった。・・・そんなつんのめった毎日から決別しよう、とわたしはついに思い立った。とはいえ。それは撤退でも避難でもなかった。それはむしろ、失われたものの奪還である。再獲得に向けての旅立ちである。(P221)