とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

日本の異界 名古屋☆

 井上章一「京都ぎらい」のヒットで本書も書かれることになったのだろうか。名古屋の異質さや特徴を書いた本はたくさんあるだろうが、より楽しく、より深く、名古屋のことを知るには、この人を置いていない。そう思って読み始めた。しかし読んでいて驚いた。清水氏は社会人として東京に出て以来40数年、東京で暮らしていたのだ。それにしては文中に出てくる名古屋弁のやりとりが何とも臨場感がある。読みながら、そのままイントネーションやリズムが聞こえてくるようだ。すばらしい。本書を読んでよかった。

 内容も面白い。第1章「名古屋に魅力はなぜないか」では、名古屋は名古屋だけで完結しており、名古屋人は東京や他都市に興味もなければ、来てほしくもないと思っているという事実が明かされる。第2章の「名古屋人のツレ・コネクション」も面白い。そのとおりだ。第3章「名古屋人は功利的」、第4章「名古屋弁は仲間内言語」、第5章「名古屋の味は面白さ重視」。いずれもそのとおりだ。

 でも書かれているのは、名古屋の魅力や名古屋人の特徴などだけではない。第6章以降で、名古屋の歴史・経済・まちづくりなどが語られる。第7代藩主・宗春のこと、そして幕末の藩主・慶勝のことは本書で初めて、その行状や歴史を知ることができた。それが現在の名古屋人に影響しているかどうかはいろいろと議論があるだろうが。

 そして最後に、「名古屋はまとも」「日本は名古屋的」といったことが高らかに綴られる。本当にそうかどうかはきちんと検証されているわけではないが、気分はよくわかる。そしてそれこそが“異界”であるということなのだ。それでいいのかどうかはよくわからないが。

 

日本の異界 名古屋 (ベスト新書)
 

 

東海道という街道は名古屋を通っていないのだ。・・・旅人は、名古屋城のある城下へは入らず、宮の渡し場から船に乗って・・・桑名の宿まで行くのだ。・・・それはなぜなのか。/その答えは、簡単には渡れない3つの大河が流れているからだ。・・・というわけで、名古屋の城下には、東海道を行く旅人が入ってこないのである。だから名古屋人は、旅の人、つまりよそ者と接することがなかった。・・・そのせいで名古屋人はよそ者に慣れず、仲間内だけで生活するふうになっているのだ。(P22)

○「住んでみえる」「わかってみえる」「覚悟してみえる」「食べてみえる」等・・・この言い方は、名古屋弁文化圏に特有のもので、名古屋弁だと言わざるをえない。/しかし、「してみえる」という言葉が面白いのは、名古屋の人が、これは名古屋弁ではない、と思って使っているところだ。いやそれどころか、名古屋弁を使うのはやめておこう、と思った時に出てくる言い方なのだ。(P91)

○名古屋人の経営感覚が非常にまともで、極めて慎重であることはよく知られている。・・・あの慎重さは、宗春が裏返ってお手本になっているのではないだろうか。宗春が反面教師となっているのだ。/そう考えていくと、一方では生活文化を派手に楽しく味わうという宗春時代の影響があり、もう一方で、あんなことは二度とあってはならないという思いから、宗春のやったことの反対が理想となっているわけで、どちらも宗春の遺産のような気がするのである。(P167)

尾張の慶勝は・・・は尊王でもなく佐幕でもなく、中立的な立場をとった。・・・だがついに、王政復古の大号令が出てしまう。・・・もう慶勝も中立的立場ではいられなくなる。・・・慶勝は判断に苦しんだはずである。御三家は将軍家を守るためにあるのだから。/しかし、慶勝は勤皇思想の人だった。ついに彼は決心する。/慶勝は御三家なのに官軍側についたのである。尾張は朝敵にならずにすんだのだ。(P223)

○名古屋は天下を取るのに絶妙な位置にあるのだが、天下を取ったあと帰りたいところではないのだ。戻ったら、ツレ・コネクションの中に引きずり落されてしまうから。/それで名古屋は、とうとう日本の都になることがなかったような気が、私にはする。/成功したら帰りたくない街、それが名古屋なのだ。(P230)

○偉大なる田舎は、偉大なる普通であることであり、偉大なるまともであるってことでもあるのだ。/つまり名古屋はまともなのだ。日本というのはそもそも名古屋的であるのだ。/そういう偉大さを、名古屋は捨ててはいけないと思う。名古屋が名古屋的である限り、名古屋は“異界”として繁栄していくのである。この先もずっと、名古屋には平気でまともである“異界”であってほしい。(P244)