とんま天狗は雲の上

サッカー観戦と読書記録と日々感じたこと等を綴っています。

特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー

 カズオ・イシグロノーベル文学賞受賞記念講演の講演録。100ページ足らずの短い本に、見開きで英語と日本語の文章が並んでいる。日本語と英文を交互に読み終えた後に、もう一度、日本語で通読をした。ところで何が言いたかったのだろう。

 たぶん、「私にとって文学とは何か?」といったことだろうか。世界中が注目する中で講演をするとなると、こうした内容にしかなりえなかっただろう。まだ現役バリバリ、これからも継続して作家活動を進めていく意欲は高いはず。そんな状況で結論的なことやこれからの方向性に枠を嵌めるようなことは言えない。そこでまずは初めての作品「遠い山なみの光」を執筆することとなった突然の啓示、「浮世の画家」執筆のきっかけとなったプルースト失われた時を求めて」との出会い、トム・ウェイツを聴きながら、いったん書き上げた「日の名残り」を仕上げたこと、そして映画「特急二十世紀」を見ながら思いを馳せた人間関係の重要性が「わたしを離さないで」他の作品に影響し、大きなターニングポイントになっているということなどを語っていく。

 こうして、これまでの作家人生を時系列で振り返りつつ、記憶をいかに保存するか、記憶と忘却の選択、啓示の瞬間、物語の意味、そして文学はこの混迷した社会でどんな役割を担うことができるのか。これらのテーマについて、けっして具体的に、明示的に、こうだと結論を述べるわけではない。それはたぶん、カズオ・イシグロにはまだまだ長い人生が待っているからだろうし、またそれを期待してもいる。若すぎるノーベル賞かもしれない。改めて思うが、村上春樹に代わり、アジア人枠としての受賞だったかもしれない。でも今年のノーベル文学賞は見送られることになってしまった。本書を読んで、それから「スキャンダルで問い直されるノーベル文学賞の真の価値:ベストセラーからアメリカを読む(渡辺由佳里):Newsweek」を読んで、ノーベル文学賞って何だろうと考えてしまった。

 

 

○「私の」日本という特異な場所はひどく脆い。外部からの検証を許さない。・・・私がしたことは、あの場所の特別な色彩や風習や作法、その荘重さや欠点など、その場所について私が考えていたすべてを、心から永久に失われてしまわないうちに紙に書き残すことでした。私は自分の日本を小説として再構築し、安全に保ちたかったのでしょう。今後はいつも1冊の本を指差して、「そう、この中に私の日本があります」と言えるように。(P37)

○風防ガラスのドームで覆い、後世の目にも触れるように残すべきなのか、それとも自然に、徐々に、朽ち果てていくのに任せるべきなのか。私には、その悩みがもっと大きなジレンマの暗喩のように聞こえました。・・・私たちは何を記憶するかをどう選択したらいいのか。忘れて先へ進んだほうがいいと、いつ言えるのか……。(P63)

○ちょっとした瞬間に、その人にだけわかる啓示の火花が静かに光ります。めったにあることではなく、あってもファンファーレつきとはかぎりません。・・・その啓示と競い合うように、もっと声高に緊急の対応を要求してくる出来事があるかもしれませんし、啓示の意味することが時代の常識に反しているかもしれません。ですが、啓示を得たら、その何たるかを認識できることが重要です。さもないと、せっかく来たものが手をすり抜けていってしまいます。(P81)

○結局のところ、物語とは1人が別の1人にこう語りかけるものでしょう。――私にはこう感じられるのですが、おわかりいただけるでしょうか? あなたも同じように感じておられるでしょうか?(P83)

○ならば、せめて・・・私たちの住むこの「文学」という小さな一角だけでも、維持発展させていきましょう。不確かな未来に私たちが何か意味ある役割を果たしていくつもりなら・・・私たちはもっと多様にならなければなりません。(P95)